#13 完璧主義を乗り越えるのはエンパシー

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第13回は、長年苦しまされてきた完璧主義について考えます。最終的には、「いかに内面化しないか」というテーマに行き着きます。


目次


それはドンマイ 結果オーライ 遊んで寝て逃げ切って頂戴

2021年5〜6月の振り返り



「生の終わりが想像できないように、僕はこの課題の終わりが想像できない」などと思っていた課題がついぞ終わりを迎えた。
 このことは、実家から下宿先に来る際の、山間を突き進む車窓が想起させる『
君は放課後インソムニア』や『海街diary』といった夏のノスタルジーと「出ていく側より見送る側の方が寂しいものなんだな。死ぬときも同じかもな。」と考えていたことを思い出させる。


 実家と下宿先の時間の流れが違うように、先の課題で扱った住居は僕に新たな時間的感覚を与えてくれた。宮崎駿は「2時間の映画を5年かけて描くから、僕の5年は2時間しかない」というようなことを言ったがまさにそれに近い感覚だったのかもしれない。(おこがましいけど。)


 さて、そのような記憶のない1ヶ月間も振り返ってみると価値観の変革という内なる爆発を繰り返していた。#07 いかに内面化しないか。/『おかえりモネ』とBUMP OF CHICKEN では『おかえりモネ』をモチーフに「メンタルヘルスの問題は価値観の問題に変換できる」のだと気がつき、#08 コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だでは、いかにしてメンタルが落ち込むか、原因は何か、どのようにして戻ってくるか、Podcastとメンタルとの関係性などを踏まえ「俺はいまだに彷徨うGhost」な状態から「もう一度立ち上がるにはやっぱり 少しは無理しなきゃいけないな」とゆっくりと立ち上がり、最終的には「もうきっと多分大丈夫 どこが痛いかわかったからね 自分で涙拾えたら いつか魔法に変えられる」という状況にまでやってこれた。それもこれも「振り返れば途切れずに 歪な線を描く足跡 悲しいくらいわかりやすく いつもここに向けて伸びる」のである。


 課題が難航するに伴って、このようにメンタルの変動が見られ、よほど落ち込んでいたのだろうか、『
大豆田とわ子と三人の元夫』と『明日のたりないふたり』に「あったかもしれない未来」と増えていく「できなかったこと」のモチーフを重ねわせ涙までした。

 これらを書いたことで、当時の関心は出し切ってしまったので、それから、いずれ線として繋がれるであろう点を増やしていく作業になった。
 これはエマニュエル・トッドが言うところの「自分の中に図書館を作ること」なのかもしれない。


『やらないといけないこと』と『やりたいこと』



 『やらなきゃいけないこと』と『やりたいこと』の関係性については何かと耳にする。それは「『できること』と『やりたいこと』」に近いものがあるかもしれない。「『できること』と『やりたいこと』」については、落合陽一『日本再興戦略』(2018)や 内田樹『困難な成熟 』(2017)が個人的に記憶に新しいが、どちらにせよ「『できること』と『やりたいこと』の両輪を回せ」というところに落ち着く。

 それはそのまま「『やらなきゃいけないこと』と『やりたいこと』の両輪を回せ」と言い換えることができるかもしれない。


 それに加えて最近は、「やらないといけないこととやりたいことは両立しないといけない」だけじゃなくて、「両立した方が両方うまく回る」んだということがわかってきた。片輪だけ回してると同じところをぐるぐる回ってしまうけど、両輪回すことで前に進む といったように。
 つまり、
「やらないといけないことに追い込まれて何もできなくなる」ときの解決策は「もっと頑張る」のではなくて、「やりたいこともやる」だった。


 Podcastを聴いていると読書に近いような知見と知的欲求の満足感が得られるので、あまり本を読めなくても良いのではないかと思っていたが、いざ本を読んでみるとそう簡単には言えないことがわかった。というのも、今回は今までに味わったことのない読書体験があったからだ。


 それは「時間から解放される」という体験。

 何かに追われ、何かを聞き、何かを見る毎日の中で、その全ては時間という概念を引き連れてくる。締め切りは?再生時間は?再生スピードは?
 方や読書には時間という概念がなかった。何分かけてどれだけ読もうと自分の自由で、読み終えるそのことに快感を感じるとともに、ただ文字を追っている事実が気持ちよかったりもする。これは一種の瞑想ではないかと思うほどに、満足感と開放感と浮遊感があった。「この体験の尊さは言葉にできない」という
『あちこちオードリー』の星野源ゲスト回を想起させるような安易な言葉に落ち着いてしまうほど、まだその実態が掴めていない。

 が、もう少し頑張って言語化を試みる。


 「文字を追う。」ただそれだけで脳が興奮する感覚は、『
街の上で』(2019)の定点長間しで興奮した感覚に近い。きっとどちらもある意味での時間的余裕に興奮しているのかもしれない。定点長回しで興奮するのはきっと足早に切り替わるラッシュのようなカットが近年増えているのも影響しているのかもとふと思った。

2022/3/24 追記
2022/4/13 追記

『街の上で』について


「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」という感覚



 今回の読書体験と『街の上で』に思わぬ共通点が見つかった興奮とともに、次の一文に目が止まった。

「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」(森博嗣『勉強の価値』(2020))


 この他人と自分の無関係さが、直前に観ていたドラマ『Loki』の「神聖時間軸から逸れるような分岐イベントが起こったとしても、分岐した時間軸は修正されるので神聖時間軸にはなんら影響がない」というMCUの時間の捉え方と近いところがあるのではないかとふと思ったからだ。(『Loki』の詳しい説明は省くけれど、簡単に言うと『Back to the Future』のような過去と未来が一直線にある時間の捉え方ではなくて、『Loki』=MCUの時間の捉え方は仮に過去を変えようと時間軸が分岐するだけで、元の時間軸には影響がないということ。この考え方で従来のパラドクスは解決できる。『STEINS;GATE』の世界線の考え方に近い。)

『Loki』について

 人と人との無関係さと過去改変と現在の無関係さ。

 一瞬繋がりを感じたものの、すぐに線を引くことができなかったので、まずは前者「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」とは一体どのような感覚なのかを考えるところから始めた。
 結果から言うと、「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」とは一体どのような感覚なのかを考えることによって新たな発見があったのだけれど、「人と人との無関係さと過去改変と現在の無関係さ」を結ぶことはまだできていない。


他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない


 競争を強く意識する中にどっぷり浸かって、そのつらさをひしひしと感じていながらも脱却できずにいた僕には、この一行が全く理解できなかった。そして、羨ましかった。頭では「他者と比較するより自分の成長に目を向ける」ということは分かっているのだけれど、心はまだそれを受け入れていなかったのだ。
 他の文章となんら大差のない地の文に、なぜか目が奪われ、気がつけば半日を費やすことになる。そして、半日をかけて少しずつ、「他者と比較するより自分の成長に目を向ける」ということを心で受け入れてゆくのである。


 それにしても、「関連性がありそうだけどよくわからないからもう少し小さな問いから扱っていこう」という思考の流れは初めてだったけど、ひょっとしたらとても重要な段階の踏み方をしているのかもしれない。まさに ブレイディみかこ, 鴻上尚史『なんとかならない時代の幸福論 』(2021)で言うところのエンパシーだと思う。


 「理解はできないけれど、人の立場に立って考えてみる」というアプローチは自分にとって初めての体験だったし、とても楽しい時間で今でもある種の興奮状態を引きずっている。しかし、よくよく考えてみると、「理解はできないけれど、人の立場に立って考えてみる」というのは会話において最も重要なことなのかもしれない。
 ひょっとして、コミュニケーションってエンパシー?


 この「頭ではわかっているけれど、心が受け入れていない」というのは自分にとって大きなテーマである。両者には大きな乖離があるのだ。(あえて言うことでもないほど皆あることだと思う。)

 どれだけ、頭で正しさを理解していても、どうしても受け入れることはできない。だけど、「受け入れられた瞬間に世界が全く変わって見える」と言う体験も多々ある。(今年はこれまでで一番多くこれを体験している。)

 この事実から、僕は「世界は自分のフィルター越しにでしか知覚できない」ということも強く実感しているし、だからこそ「フィルターこそ(自分が知覚している)世界だ」と思っている。しかし、これはエマニュエル・トッドに言わせれば「我思う、故に我あり」というデカルト的な考え方であり、合理主義に当たるのだとか。
 初めてカテゴライズされたので、本当に自分が合理主義なのかは書籍を読んで今後じっくり確認してゆきたい。

さて、レポートの文字数を満たすほどのウォーミングアップをしたところで、やっと本題に入ってゆく。


なぜ、自分は「他者が自分と比べて優れているか劣っているかが自分に関係『ある』」と思っているのか



 やっと本題の、「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」とはいったいどのような感覚なのか、自分なりに考えてみる。


 まず大前提として、自分は現在、他者との比較の中にいる。だから大きな劣等感と挫折感と焦燥感と不安に苛まれている。だから、なぜ、自分は「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係『ある』」と思っているのか。というところから始めた。

 他者と比較して優劣を判断する時に必ず引き連れてくるのは将来の仕事や大学の成績だ。しかし、よくよく考えてみると、自分は大学の成績にはあまり固執していない。そのことを踏まえると、将来の仕事が自分にとって大きな悩みの種になっていることが明らかになる。


「ここで勝てない奴が社会に出たところで価値のあるものを生み出すことができるのだろうか。」
この考えが比較競争を強く煽っているのだ。


 また、別の角度から比較競争を煽るものがある。それは、優越感だ。優越感とは「自分が他人と比べて優れていると思う快感(広辞苑 第七版)」のこと。快感なのだ。快感だから求めてしまうのは本能である。

追記(2022/3/23)

 しかし、優越感を求める理由は本当に「快感」だけなのだろうか。プライドもあるのではないだろうか。
 

 うーん。


 この辺りになると無防備に、でもしっかりと肥大した虚栄心が見えてくるので、それを一つ一つ確認するのは、それこそ散弾銃で打ち抜く作業になってくる。


 改めて。プライドもあるのではないだろうか。


 ああ確かにある。


 誰にも見せたくない一線があるということだろうか。

 いや、そうでもない。心を許した相手ならばハリボテのプライドで虚栄心の壁を作りたいとは思わない。

 つまり、僕のプライドというのは時と場合によって顔を出したり引っ込めたりするというわけだ。

 では優越感に浸りたいという感情は先天的なものなんだろうか。
 この「先天的か否か」という問いは自分でもよく使うと問いだし、重要な要素だと思っている。
先天的ならば割と諦めがつくけれど、後天的ならば「どのタイミングでどのように何がきっかけでどれくらいの強さでその考えが根付いたか」という新たな問いを引き連れていうるからだ。そして、これらの問いを一つ一つ振り返っていくと、「バカバカしい考えだった」と思える瞬間が来たりする。だから、「先天的か否か」という問いは意識的に使うようにしている。


 もう一度。優越感に浸りたいという感情は先天的なものなんだろうか。
 優越感よりもう一つ大きな枠組みの感情に置き換えると「できたら嬉しい」という感情になるのではないだろうか。
 「できたら嬉しい」という感情は人間に備わる本能だと思う。だから、「できたら嬉しい」という感情は先天的だと思う。ではこの「できたら」とは、一体で何が「できたら」嬉しいのだろう。


 二つ考えられる。

・自分ができなかったことができるようになったら嬉しい
・人よりできたら嬉しい

見つけた。ここだ。ここが分岐点だ。


 
「昔の自分よりできた」より「人よりできた」に比重がかかることによって、「できたら嬉しい」が優越感に直結する。

ここからもう少し、「自分ができなかったことができるようになったら嬉しい」「人よりできたら嬉しい」と言うことについて考えてゆく。


ふたつの「できたら嬉しい」について考える



 「できたら嬉しい」の「できたら」として次の二つが考えられる。

・自分ができなかったことができるようになったら嬉しい
・人よりできたら嬉しい(強く見せたいというのは本能だろうけど。)


 前者の「過去の自分よりできたら」は最も追い求めるべき「できたら」だと思う。しかし、忘れてしまっている自分がいた。後者の「人よりできたら」の呪いが強力すぎたのだ。
 100mで言うと「タイムの更新」と「勝利」の二つに言い変えられる。本来ならば自分に合った両者の比率を保っているのが一番健康体なのだ。しかし、自分の場合、ほとんど後者に傾き切っていた。シーソーならちっとも楽しくない。

 前者は過程のおもしろさがある。これはすなわち人生の楽しさでもある。自分自身、何かの経験を通して自分がどのように変化したかという過程を整理するのが好きで、この文章もまさにそれであり、この過程を考えていれば一生、生きていけるとそう思える。

 しかし、過程を他人に認められることはあまりない。他人に認められることがないということは社会的価値がないということに近い。(等しいとは言い切らない最後の何かが自分の中にいる。)個人にどのような変化があろうと、それが社会的価値を生み出すようなものでない限り、つまり、多くの人が経験してきた変化である限り、それはその他大勢と同じただの一例に集約され、ついぞ社会的価値にはなり得ない。(もっと大きな時間のスパンで見れば、個人の成長は人類にとって重要な要素だが、短い時間のスパンの中ではとりわけ注目するものでもない。僕はそう思わないし、そこに抗っていきたいけど。)

2022/4/13 追記

 そう。この段階で「社会的価値」というものが踏み込んでくる。価値というのは需要があるもので、希少性が高く、再現性が低く、特異性が高いものなのだろう。

 どれだけ成長しようと、それが、大勢が経験したそれで合ったならば価値がない。社会とはそういうものなんだ。

 そう思うと、「社会」という実態のないものにこれほど振り回されているのに腹が立ってきた。
社会って無責任じゃないか?

 生まれた瞬間に、社会の一部であることを運命づけられて、その中でなるべく秀でた存在になるように頑張りなさいというレースを走らされて(ここは完全に自分の問題だけどそう思えるまでには時間がかかったという話をずっとしているのです。)、秀でた才能がなければ見向きもされなくて、秀でていても秀でていなくても使い終わったら捨てられて、あとは死ぬのを待つだけ。
いや、無責任すぎるだろ。(自分の見方が歪んでいるだけ。)


自分の人生の中の時間的スパンや価値観を勝手に決められて、必死に合わせなくちゃいけないのに、必死に合わせてもどうせ使い捨てられるのならば、そんなに必死に合わせなくても良くね?グレるとか、そんな短絡的な意味ではなく、社会に対してそんなに真面目になりすぎなくても良くない?

そう思った瞬間、何かを突破した気がした。


 これは、 レイディみかこ, 鴻上尚史『なんとかならない時代の幸福論』(2021) で言うところの「そんなことやっても良いんですか?」を越えてゆけというところにも通ずると思うし、こんにちは未来『オリンピックに思うこと』でいうところの「無駄だけど無意識に守っているルール に通じるところがある。


 「個人の成長」は他人には認められない。他人?いや、先人や多くの人には認められないかもしれない。特に日本ではそうなのかもしれない。僕の出会ってきた人たちがたまたまそうなだけ?いや、きっと自分がちゃんと受け取れていないだけかもしれない。


ハーバード大学のコンピュータサイエンス(CS)の基礎講座(CS50)をオンライン上で無料で受けることができるのだが、その授業のはじめに次のようなスライドが出る。

何かのPodcastでこの講座の存在を聞いて、なんとなく見てみたらこの言葉が出てきた。

what ultimately matters in this course is not so much where you end up relative to your classmates but where you end up relative to yourself when you began」
「このコースで最終的に重要なのは、クラスメートと比較してどこにいるかということよりも、スタートした時の自分と比較して、どのような結果になるかです。」



 ハーバード大学のような優秀な人たちが集まる場所でさえ、最初にこのようなフォローアップがあるんだ。自分で思うのと先生に言われるのとではやっぱり影響力が違うよね。。

 だけど、自分では認めたいし、認めて良いと思えた。そして、自分が手の届く範囲にいる人の成長も同様に褒めてあげたい。そう思えるようになった。
 それが相手にとって、毒にも薬にもならないかもしれないけど、薬になるかもしれないと信じて。


黙って見てな


完璧主義を乗り越えるのはエンパシー



 「社会に対してそんなに真面目になりすぎなくても良くない?」
 そう思った瞬間に、「人に勝って嬉しい」という優越感の重要度が大暴落した。価値観が大きく転換する大爆発が自分の中で起こった。

 ほとんどが繰り返しになるけど、もう一度振り返ることで、自分の頭を整理する。

 人と比べてしまう理由の一つに優越感という快楽がある。優越感という快楽は他人より優れる=他人に勝つということである。それすなわち、自分の中の成長を他人から認められることである。つまり、「人に勝ちたいという欲求」=「成長を他人に認められたいという欲求」である。そう、「成長」が先にあるのだ。つまり、「自分の中での成長」が一次的なもので、「他者にそれを認めてもらえること」=「人に勝つこと」は二次的なものである。
 なるほど、よく聞く「結果は後からついてくる」「結果はご褒美」というのはこういうことだったのか。初めてわかった。

 自己成長を第一目標にし、それを目指し楽しんでいたら、結果としてたまたま人より優れていた場合、「優秀」だと言われる。人より優秀であったとしても、それはたまたまのその状況における事実であって、だからどうという話ではない。また、プライドが守られたら優越感にはつながる。しかし、優越感につながるけれど、承認にはつながらない。

 ではプライド失ったらどうなる?

 恥ずかしい?

 とても恥ずかしい?

 それから…
 ん?それだけ?


 ひょっとして、プライドが必死に守っていたものは単なる「恥ずかしさ」だけなのかもしれない。
なんだ。いらなねぇな。


 要するに「社会」という尺度を自分の中から奪い去った時、「人に勝つこと」も「プライド」も重要ではなかったのだ。かなり、「勝てなさ」に苦しまされてきたけど、「社会に対してある種の不真面目さ」で構えることによって他人との比較から解放されて「自己成長」に焦点を当てていけるようになるのかもしれない。
 そう感じた。


 こうして振り返ってみると、どれもこれも、絶対的な「社会」そのものが悪いのではなくて、「自分が見ていた社会」が自分のメンタルを削っていたのである。つまり自分のフィルターが自分のメンタルを削っていたのである。
 今回のテーマも含めて、自分が導き出した最近のテーマは「
いかに内面化しないか」であり、これは本当に重要なことだと思う。


 僕は完璧主義者だ。それは常に人と比較するという尺度の中にいた。自分の中に絶対的な尺度があるのではなかった。だからこそ、他人との比較から解放されることは完璧主義を乗り越えることにつながる。それもこれも、自分には全く理解できない「他者が自分と比べて優れていようが劣っていようが自分には関係ない」とはいったいどういう感覚なんだろうと考えたこと、つまりエンパシーに起因するのだ。
 そして、全く理解できないと思っていたことが、「社会」という尺度を取っ払うと自分の中にもあった感覚だったと気がついた。


 僕にとって、完璧主義を乗り越えるのに必要なのはエンパシーだった。



それはドンマイ 結果オーライ 遊んで寝て逃げ切って頂戴


(おわり)

※この記事は2021年9月8日に書いた文章を加筆編集したものです。

参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。


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