大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第11回は、(誰に見せるわけでもないのに)#01~#10を冊子のようにまとめた際にあとがき代わりに書いたものです。これまで書いてきたものを整理すると共に、自分は文章を書くことを通して何をしたいのかについて考えます。
目次
世界に小さな覗き穴をこじ開ける
半年強にわたって書いてきた文章を改めて読み返してみると、自分がやっていることは「文脈を整理すること」に集約されるのだと思う。
それは、『#03 『花束みたいな恋をした』を引き受けて 』で書いたアイデンティティの喪失と20歳になるという大きな節目を前にした絶望から始まる。これからきっと30,40,..と歳を重ねるごとにそれぞれ向き合っていくものだと思うし、その20歳ver.を残せたのかなと思う。
最初は反射的なある種の生存本能として出現した「自分の文脈を整理することでアイデンティティを形成する」という行為は、結果的に新たな自己認識とその型を与えてくれた。そして、自己認識を繰り返すことで不思議なことに自分を信頼できるようになってくる。
そう思うと、他人に対する恐れだったり、憤りだったりというネガティブな感情は、自分がわからなくて自分を信用できないことが表出している状態なのかもしれない。
そして、文脈整理をしていく中でもう一つ画期的な発見をした。
それは『 #08 コロナ禍はメンタルヘルスケアの絶好の実験期間だ 』で書いた、「メンタルヘルスの問題は価値観の問題に変換できる」ということである。この発見とともに、「ああ、自分はこれからも価値観の変化させて生きやすくなっていくんだな」ということがわかったし、文脈整理とは価値観の変化の整理なのである。
そんな中でたどり着いたのは『#10 人は「ものさし」を獲得することで認識し「ものさし」を捨てることで成長する 』のタイトルそのものである。
そして、さらには、自分は今、「ものさし」を獲得するフェーズにいるのか、「ものさし」から解放されるフェーズにいるのか。全てはその自己認識から始まるということである。
また、新たな価値観の発見・変化は変え難い幸福な体験である。多分、人生で楽しいことを挙げたら5本の指に入る。この「新たな価値観の発見・変化」の多幸感は、「世界に小さな覗き穴をこじ開ける」という少しいかがわしいような、自分だけが知っている世界に触れるような、冒険心をくすぐられる高揚感がある。
そして、これは『【宮﨑駿ロングインタビュー】『劇場版 アーヤと魔女』8/27公開記念(東方MOVIEチャンネル)』で宮崎駿が言うところの「すき間を見つ」けるということなのかもしれない。
と、これで締めたかったのだけど、最後に新たに芽生えてしまった問いを二つ挙げておこうと思う。
新たな問い
一つ目は、自己の唯一無二性についてである。「新たな価値観の発見・変化」=「世界に小さな覗き穴をこじ開ける」は人生でも変え難い幸福な体験だが、自分が今まで発見してきたもの、そして、これから発見するものは全て人類史において既出の発見であるというのがどうも虚しいのである。時間軸・空間軸のタテとヨコで俯瞰してみると、自分の発見は無意味なのではないかと思ってしまうのである。自分の営みは何か枠組みを超えられないモルモットのような感覚に陥る。しかし、これは同時に「発見は人類史上初めてでないといけないのか?」という問いももたらしてくれる。虚しさを感じるということは少なからず、「発見は人類史上初めてでないといけない」というかそうでないと価値をもたないと感じているのだろう。
この感覚と「アイデンティティは唯一無二でないといけない」と思っている感覚はきっと出どころが同じなのである。これについて、受け入れるか、新たな価値観を持って乗り越えなければならないというのが一つ目の問いである。
→これは、『#16 アイデンティティの不安定さをめぐって-『花束みたいな恋をした』から『暇と退屈の倫理学』へ- 』に展開していきます。
二つ目は、責任についてである。自由意志について考えていた時に、自由意志には責任が伴うのだなということを再確認した。そして、ある本を思い出すのである。それは再三登場した 内田樹『困難な成熟 』(2015)である。そのメインテーマに据えられているのが「責任」なのだが、本書の中で次のようなことが書かれている。
ひとつ目の問いはこうでした。
「責任を取るということは可能でしょうか」
僕の答えはシンプルです。
「不可能です」
以上、おしまい。
シンプルですよね。
でも、どうして責任を取るということが不可能なのか、その理路を語るには、ずいぶん長いお話に付き合ってもらわなければなりません。
内田樹に言わせると、責任を取ることは不可能らしい。読んでもなかなか理解できなかったのだが、個人的には次のように理解した。「責任とは、それ以上でも以下でもない。『責任を取る』という言葉はあるけれど、真の意味で『責任を取る』ことはできないように、それはフィクションであり、単なるパフォーマンスである。人々はそのパフォーマンスを落とし所にすることで世界はまわっている。」では、責任は取ることができないものとして、「自由意志に伴う責任」とは一体何なのか。ここをつなげることが二つ目の問いである。
両方ともとても興味深い。
このようにして、その意味を問いながらも、「世界に小さな覗き穴をこじ開ける」行為はこれからもずっと続いてゆく。
サボり方とか 甘え方とか 逃げ方とか 言い訳の仕方とか
(おわり)
※この記事は2021年9月8日に書いた文章を加筆編集したものです。
参考資料
真昼の深夜(まひる)
Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。