#10 人は「ものさし」を獲得することで認識し「ものさし」を捨てることで成長する

大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第10回は、2021年の夏休みに、勉強することの楽しさを思い出した時の感覚の言語化に試みます。


目次

資本主義をめぐるわくわく



目先の未来を嬉しく思ったり
昔の酷い記憶を美しいと感じたり
そんな風に僕いたちは穏やかに騙されながら
課題をひとつふたつとこなしていくのさ
(Mom / ワールドイズユアーズ)


 これまでも再三触れてきた新自由主義。それと同時に触れなければならないのが資本主義である。このところ書店を歩いていると、資本主義の終焉を謳った本が多く見られ(斎藤幸平『人新世の資本論 』(2020))もそれを加速させているように感じる)、映画をはじめとするあらゆるカルチャーでもその限界が語られる。


『資本論』について

 資本主義はもうそんなフェーズに入っているのか と衝撃を受けた無知な私は、そこで初めて「資本主義下で生きているのに、資本主義について何も知らない」ということがわかった。

再三登場しているPodcast番組『歴史を面白く学ぶコテンラジオ』のお金の歴史(#072~#078)という連続エピソードがある。飛ばして気がずにいたエピソードだったのだが、母親に勧められたので奇貨として聞いてみた。

コテンラジオ(#072~#078)『お金の歴史』

 するとこれが、お金の誕生から銀行、株式会社の誕生、そして、資本主義の誕生までを一気に語るのである。

 資本主義の誕生と産業革命は切っても切り離せない関係だが、では、なぜ産業革命はイギリスの田舎であるマンチェスターで起こったのか、なぜイギリスは資本主義の覇者になれなかったか(第一次世界大戦に起因し、その間にアメリカが一抜けした)、なぜ第一次世界大戦が起こったか(フランス革命、ひいては資本主義の誕生に起因する)、なぜ産業革命はアジア、特に中国で起こらなかったかなどの展開は非常におもしろく開眼した。その詳しい内容については実際に聞いて確かめて欲しい。

 同時にたまたま借りていた 堀内勉, 小泉英明『資本主義はどこへ向かうのか 』(2019)を読んでみるとさらに理解が深まった。資本主義はどこへ向かうのか ということを差し置いて、特に興味深かった内容は以下の3つである。

・資本主義は時間を支配する形式の一つで未来の問題に関わる
・資本主義とは無限に利潤を求める行為
・資本主義の成功報酬としての脳の快楽は脳科学的にみると生存に基づかない快楽なのではないか


 この、「資本主義とは無限に利潤を求める行為」は 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(2011)の中の「「贅沢」のすすめ」にも通ずるところがある。この國分功一郎の「「贅沢」のすすめ」は『高校生のための現代思想ベーシック ちくま評論入門 改訂版』に載っているのでぜひ読んでみて欲しい(もう学校で買っていなかったり、改訂されて収録から外れていたらすみません。でも、疑問に思ったことがあったら、ここに何か書いてないかなと開いてみる良い本です)。


 コテンラジオとこの本を通して産業革命当時の時代感覚から現在の世界の状況まで少し掴めた感じがした。なんとも言えない安心感とわくわく感があったのだが、それはきっと、世界史における「ものさし」を手に入れた瞬間だったということだろう。ここからの距離感で学んでいけばとても面白いのではないかという期待感に満ち溢れた。


 ところで、私は新しいものに触れる時に、まだなにも知らないということに大きなコンプレックスを抱く性格だ。これはとても面倒な足枷である。そのコンプレックスをもう少し掘り下げると、その分野において自分のフィールドを持たないということである。それによる不安と焦燥感がコンプレックスへとつながる。コンプレックスをバネにして勉学に励むことができたのならそれが最も望ましいだろう。そして、これまではコンプレックスをバネにすることが唯一の道で、そうできないものは敗者なのだと思ってきた。しかし、自分はそうはいかないことも同時にわかってきた。根本的にはこの自己認識の差異が体調不良に直結していたのだと考えられる。

 その差異には時に乗り越えるべくして立ち向かっていくべきなのだが、一方で、その差異は差異であると受け入れることも必要なのだ。

フラフープみたいな人生だ
落ちすぎないように頑張るだけ
同じ軌道の輪をなぞって
気持ちいいところでキープするだけ
(Mom / ワールドイズユアーズ)


「ものさし」を獲得すること、捨てること




心が壊れそう
何かが崩れそう
賑やかなとこに行かなくちゃ
このピンチを今すぐ食い止めなくちゃ

(
Mom / 心が壊れそう)


 さて、自分のフィールドを獲得すると、そのフィールドとの距離感で分野を計り、認識して、学ぶことができる。したがって、「その分野において自分のフィールドを獲得する」ということは、「ものさしを手に入れる」と換言できる。ここまで書いてきて、生きている上での不安の多くはこの「ものさし」の有無に還元できるのではないかと思うようになってきた。


 自分の好きなものには皆ものさしを持っているものだと思う。
 例えば、自分でいうラジオならば、
オールナイトニッポン(ニッポン放送)FM802からの距離感でラジオ界を見ているし、Podcastならば『POP LIFE: the Podcast』からの距離感でPodcast界を見ている。映画ならば…と枚挙に暇がない。

 ここで、建築学生という現在の自分のフィールドに戻す。やはり、依然、建築学生というアイデンティティをアイデンティティとして受け入れられていない自分がいる。それに関わるのがひどく怖いのである。しかしその怖さを細分化してみると

・大学という「場所」に居場所を獲得できていない
・大学という「ひと」の中に居場所を獲得できていない
・建築という「学問」に居場所を獲得できていない

ということがわかった。


 なるほど。何も獲得できていないな。


 しかし、不安というのは不安の正体が少しわかれば、楽になるものだ。何を獲得していないかがわかれば、何を獲得していけば良いかもわかる。「わからない」ということが最も怖く、最も不安を掻き立てるのである。

 だから死は怖いのだ。

 こんなことを書くと、池田晶子は「生存はひとつの存在形式である」と言っていたなぁとか、 映画『東京物語』(1953) の尾道の隣人のフランクさが当時の(もしくは本来の)死生観を表していたんじゃないだろうか、とか色々思い出してしまう。


 少々脱線したが、何が言いたかったかというと 「ものさし」を獲得することが不安から脱却するひとつの方法なんだということである。 獲得した「ものさし」で距離感を図って、その距離感で対象を認識できると多分に接しやすくなる。そのようにして学んだ結果、全体像を手に入れたら「ものさし」は不要になるかもしれないし、もしくはそれが専門になるのかもしれない。



 真面目な田舎者が都会の高校であらゆる価値観の人と出会い、自分も他人も受け入れていく学園コメディの素晴らしい漫画『スキップとローファー』に、この「ものさし」という尺度を持ち込むと、あの作品はどうやら「ものさし」から解放されていく過程を描いているなぁとも思うわけである。
 そう思うと、人は「ものさし」を獲得することで物事を認識し、「ものさし」から解放されることで自由になって成長していくということができるのだろう。これは「ものさし」を言葉に置き換えても成り立つ。

 いつか書いた「人は言葉を獲得することで認識し言葉を忘れることで成長する」ということが確信に変わった瞬間だった。


 先ほども述べた通り、何もわからないということが不安なのだ。そして、何がわからないかがわかると少し安心する。例えば、「ものさし」を獲得していない状況だとわかったら少し安心する。
換言すると、
嫌いだったり、苦手だったりするものが、「これから好きになるもの」になり得る。
 これは個人的に発明的な発見だった。


 自分は今、「ものさし」を獲得するフェーズにいるのか、「ものさし」から解放されるフェーズにいるのか。それは分野や考える対象によって様々なはずだ。

 全てはその自己認識から始まるのだと思う。

このなんでいいのかなって音楽も
このなんでいいのかなって映画も
このなんでいいのかなって広告も
このなんでいいのかなって政治家も
ただの退屈しのぎにしてはダメなのさ
怒りは一番尊いものさ
サボテンの花に水をやるように
わりと覚悟やら辛抱やら愛がいるものさ
(Mom / 心が壊れそう)


(おわり)

※この記事は2021年9月7日に書いた文章を加筆編集したものです。

参考資料

真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。


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