大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第4回は、ドラマ『カルテット』を見て、日常の時間感覚、そして失われていく可能性について少し考えたので、言語化を試みます。
自分のような”見る目”が整っていない人間からすると、どこから手をつけて良いのか、何がすごかったのか を明確に言語化することさえ難しい。ゆえに、物語全体の包括などという大それたことを目指さず、今回も自分の文脈と琴線に触れた部分のみフォーカスする。そもそも作品をどう解釈するかということにはあまり興味がなくて、(例え的外れな解釈であったとしても)読み取った問題提起に対して、自分はどう考えるのか、何を感じたのか について考える方が興味があるので、今回もそのような文章になってます。
時の不可逆性の不思議というのは自分にとって大きなテーマである。映画ならチャプターでどの時点にも飛ぶことができるのに、自分の人生はチャプターで飛ぶことができない。当たり前だけど、不思議に思ってしまったから仕方がない。最近では今の自分がこれまでの自分の上に立脚し、常に最新を更新していると感じる時と、これまでの自分が全てチャプターに閉じ込められていて、全て同時並行で存在していると感じる時がある。
この辺りは『TENET テネット』でも『メッセージ』でも存分に描かれている。
フィクションではチャプターでどの時点にも飛ぶことができるけど、リアルではできない という不思議の中にいながら、時の不可逆性を皮肉かなフィクションで示してきたのがこの『カルテット』である。
第一話で何気ない会話をリアル以上にリアルに描く坂本裕二の筆致に口をポカーンと開けてみている自分をよそ目に、「唐揚げにレモン」というこのドラマの重要なモチーフになる時の不可逆性を忍び込ませる。ボケーっと見てたらあかんな。。。
会話も小道具も動きもその全てが次につながるモチーフの展開として機能しており、その見事さにただただ声が漏れた。
前述にもあるとおり、モチーフの展開がとにかくすごい。一つ一つがパズルのピースのようにパチパチとハマっていく快感は、『A子さんの恋人』に近いものを感じる。
唐揚げにレモン で示された、時の不可逆性はこの物語全体のモチーフになっていき、もうやり直すことができない、やり直しの効かない人々が実直に描かれていく。一つ一つの選択で捨ててきた未来を、これから捨てないといけない未来を意識し始めるこの歳には刺さりすぎた。
誰もがお金持ちになりたいわけでもないし、誰もが競走しているわけでもないし、誰もが勝ちたいわけでもない
新自由主義が蔓延している現代へのアンチテーゼとアウトサイダーへの肯定が見える瞬間でもある。
音楽を夢にするのか、趣味にするのか。趣味にできたら楽だけど、夢にしたら泥沼だ。
という”生き方””価値観”の葛藤は、そのまま「新自由主義の競走を正攻法で勝利する」ことでしか幸せが手に入れられないと思い込んでいた自分と、違う方法で幸せに辿り着く方法を探しても良いのかもしれないと思い始めた自分。そして、その選択は妥協か、方向転換か、という現在の自分の葛藤に直結した。
放送当時2017年はほとんどテレビを見ていなかったので、どれほど話題であったかさえも知らないが、何を語って良いかはわからないけどとにかく言語誘発性を持つ作品であるのは事実だ。(言ってみたかっただけ)
何度リセットボタンを押してもやり直せないし、うまくいかない現実。
音楽は戻らないよ。前に進むだけだよ。
カルテットの4人が主人公の物語にしたのはこの台詞のためなのではないかというほどに、瑞々しく響く。
恥ずかしいと思わないんですか?みなさん、椅子取りゲームで負けたのに、座ってるふりしてるだけですよね。
という強烈な台詞にもあるように、物語が進んでも音楽を生業にできない大人たち。
それでも
人生やり直しスイッチはもう押さないと思います。
と、今まで過ごしてきたもうやり直せない人生を肯定していく姿が示される。
最終話では「音楽を夢にするのか、趣味にするのか。趣味にできたら楽だけど、夢にしたら泥沼だ。」という、物語前半で出てきた会話が全く同じシチュエーションで繰り返される。そして、前回は「コーン茶淹れます」という言葉でその場をはぐらかし、最終話でも「コーン茶」で話をはぐらかす。だけでなく、「コンサートやりませんか?」という台詞の呼び水になっているのが素晴らしい。
フィクションである以上希望を示さなければならない。ということをよく耳にするが、自分は希望を示されたからといって希望を持てる性格ではないので、この物語に背中を押されたなんてことは決してない。夢追い人の煌めきや夢破れてもその先へ進む人々の背中を押す物語でもない。悩みながらも生きる人々を過剰にドラマチックに描くことなく、あくまで溢れた多様な生活の中の一つとして描かれている。
そういう意味でも、『カルテット』はどこまでもアウトサイダーを肯定してくれる。
不可逆な現実を突きつけるこの作品を見て、時間の不可逆性は、「やり直せないこれまでを嘆きこの一瞬を急き立てるのではく、これまでの時間を肯定し同時並行的にチャプターしてくれる」ように感じた。
「ある意味では時間は存在しない」
と言った池田晶子をほんの少しだけ理解できたように感じる。が、この問題は自由意志と自己決定論をセットに引き連れてくるので、それに関しては『TENET』や『メッセージ』やMCU作品群で考えていきたい。
このようなネットにアップする文章は取り消すことはできても、誰かの目に入ってしまった以上は完全に存在を消すことはできない。
言ってみたかっただけのたくさんの恥ずかしい言葉を連ねたこの文章も、やり直すことはできないけれど確かなチャプターとなるのかもしれない。
(おわり)
※2021年4月1日に書いた文章を加筆編集したものです。
参考資料
真昼の深夜(まひる)
Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。