せめて自分たちの手で自分たちを守りたい。できれば、周りを巻き込みながら。

生活に実感を取り戻すために、「生活の実感とは何か」を考え直すために、ウェブサイトをはじめます



 はじめまして。真昼の深夜と申します。真昼に深夜ラジオをタイムフリーで聞いているということから名付けた、いわばラジオネームのようなものです。このウェブサイト『あの日の交差点』を運営しています。

 このウェブサイトでは、いろんな方にお願いしてエッセイや連載、小説などを掲載していこうと思っています。そして、ウェブサイト『あの日の交差点』はPodcast番組『あの日の交差点』と連動する形ではじめます。

 まずは、ウェブサイトおよびPodcastを用いて『あの日の交差点』では何をやりたいのか、なぜこのようなものをやりたいと考えているのかについて説明させてください。



 私は、2021年の2月に、半ば衝動的にPodcast番組『あの日の交差点』を立ち上げました。

 それは、大学1年生の春休みを迎えていた頃でした。実家から電車で2時間半程度のところにある大学に実家からリモート(オンデマンド)授業で通っており、そこに待っていたのは、ほぼ全てのしがらみから解放される一方で、友達ができないのはもちろん帰属意識を感じない空虚な時間を過ごすことになる、いわば解放区と監獄が秒単位で切り替わる世界でした。そんな世界に放り出されて、大学に入学してから過ごしてきた日々と現在進行形で進んでゆく日々と、そして、これからの日々に、とにかく絶望していました。


 大学に入ってから生きている実感がない。


 コロナ禍によって世界との接続感が失われ、友達も、知り合いもできないまま一年が過ぎ去った中で(それは今でもあまり変わっていない)、嫌でも「生きること」そして「自分自身のこと」を直視せずにはいられませんでした。いや、むしろそれくらいしか考えることがなかったのかもしれません。しかし、友人と繁華街へ遊びに出かけたり、ゲームセンターやカラオケは愚か、ご飯を食べに行くこともほとんどなかった僕の生活のうち、 コロナ禍で変化したことなどそれほどないはずなのです。いつも散歩していた道は変わらずそこにあるし、聞いていた音楽やラジオ、見ていた映画も変わらずにそこにある。しかし、確実に世界は変わって見えました。(あって無いような)コミュニティとの接続が断たれ、不本意にも足場が崩れ去り、世界との接続間を失った。いや、失ったような気がした。

 今から思い返すと、実感以上に何も変わらないこの世界に居場所を失った自分は、この頃から「そもそも何を居場所にしていたのか?」「居場所とは一体何か?」「世界との接続感とは何か?」ということを無意識的に考え始めていたのかもしれません。そして、世界との接続感が失われた(ように感じた)ことで、それ以前より生きづらさが増したように感じます。

 この生きづらさは一体どこからきているのか。このつらい世の中のどこに希望を見出し、自分はどう生きたら良いのか。今もなお、この問いに直面しています。

 つらさとは往々にして、自分が作り出しているものであり、世界の側よりむしろ、自分の世界の見方に原因があるのです。ならば、世界を読み替えることで生きづらさから脱却したい。


2021年2月、Podcastをはじめました



 そう思えるようになったのは割と最近のことで、世界を読み替えることを意識する前は、飛びつきやすい自分の外、つまりエンタメに自分の全てを預けていました。

 ぼくが最も心を許して身を預けたのはラジオでした。ラジオはその多くが生放送であったり、パーソナリティが自分のエピソードを話すというメディアの特徴もあり、遠くで輝いて見えていた芸能人の方々も普通の人間で、リアルタイムで同じ世界を生きているのだという実感を初めて持つことができました。当時、世界との接続感を失ったと感じていた自分には、このラジオの「同時代性」というリアルさが社会との唯一の接点でした。

 しかし、僕は昔も今も、芸能人だけでなく本の著者など、自分だけが一方的に知っている関係にある人にリアルさを感じていません。彼らはどうしてもフィクションの域を出ないのです。だから、例えばラジオでメールを読まれたり、イベントで会いに行くことで彼らのもっと近くへ行ったとしても、それは「一方的に知っている関係」をさらに浮き彫りにするだけで、フィクションの関係性を色濃くするだけなのです。

 だからこそ、何かが物足りなかった。「同時代性」を感じるけれどフィクションの域を出ないラジオ(自分とはかけ離れた場所)を心のよりどころにしてはいけないのだ、と思うようになりました。さらに、ラジオを聞いても本を開いても、そこにあるのは自分より、もう何十歳も年上の人々や専門家、プロの声です。ある程度、完成された思考や理論をあまりにも整然と語ってしまう。ラジオはもう少し未完成で身近な側面があるけれど、それでもやはり年齢的に考えていることやそのフェーズには自分のそれとギャップがありました。関心ごとや思考の段階、そして生きているフィールドにもう少し当事者性を持てる場所がほしい。いつからかそう思うようになっていました。

 そこで、こう考えたのです。 同年代のパーソナルに迫るカルチャートーク番組を作りたい。



 自分と同じような時代を経験しながら、異なる地理的、文化的環境で育ってきた同年代の人々は、いまこの瞬間に何を考えているのか。ラジオからは流れてこないような、何者でもないただの若者が、一体何を考えて、何を楽しんで生きているのか。未熟で、荒削りの考えを、理論として完成される前の段階で世に出す場所があってもいいのではないか。瞬間的に出てきた、言葉になるかならないかの想いの芽が、しっかりと説明される理論に辿り着くまでの過程を見れる場所があってもいいのではないか。いや、むしろその過程を共に歩ませてほしい。

そうしたおぼろげな初期衝動で始めたのがPodcast番組『あの日の交差点』です。


 上記のnote『同年代の人のパーソナルに迫るカルチャートーク番組を作りたい』のなかで、アイドル業界はファンのお金をかけている量が可視化されるといったことや、ラジオではメールを読まれる人がリスナーとして目立つことに疎外感を感じていると書きました。きっとこれは、(もちろん、自意識過剰な被害妄想はあるけれど)ネットポピュリズム時代のコトの消費による差異化に、無意識ながらに反発していたのだと思います。この感覚はもうすでに無くなりましたが、それはきっとPodcastを一年間続けてきたからです。


「消費者」として消費されることなく、自立したい



 おかげさまで、たくさんの方々にゲストに来ていただいて、エンタメから哲学、人生観まで行き来しながら対話を重ねてきました。1年間番組を続けていく中で、少しずつ『あの日の交差点』に求めた初期衝動の輪郭が見えてきたような気がします。その興奮から、Podcastを始めた時のように、またしても衝動的にこの文章を書いているのです。まだ、掴んでいないけれど、確実に掴めそうな何かがある。

 それは、「 世界の手触り感を手に入れる 」ということです。自立とも言い換えられるでしょうか。


 僕は、新自由主義の台頭する大量消費社会のど真ん中を何の疑いもなく闊歩していたのだけれど、いま、その土台が完全に揺らいでいます。

 街へ出れば、どこの都市にもあるモノが溢れかえり、SNSに投稿するために存在するいわばリアルなハッシュタグ的な場所に人は集まり、ストリーミングをひらけば本来自由に泳げるはずの映画・音楽の海がランキングとAIによって最大公約数的に回収されてしまう。そして、SNSをひらけば、日々誰かが誰かに怒っていて、「正論という名の武器を振りかざした人々」と「そのような人々に自分は間違っていないと理解されたい人」が溢れていいて、何かを発信するときには、発信したいことよりも求められることを考えてしまいがちになってしまう。

 楽しいもの(こと)はたくさんあるのだけれど、 楽しいもの(こと)はこの中から選んでくださいと手札を提示されて、自動的に選ばされている気がする。 このことと、世界の手触り感はきっても切り離すことのできない関係にあると思うのです。

 そして同時に、自分はこの渦(状況)の外側で静観しているのではなく、確実に渦の中にいて、その中で何が正しいのかを判断できないまま、どこに自分の居場所(安心する場所)があるのかを見つけることができないまま、しかし確かに心は疲弊しています。

 気を抜けば「消費者」として消費されてしまうこの世界に、どうにか裂け目を見つけ出して、記号化されることなく自分の足でこの世界に立つ方法を見つけたい。

 このような話の展開になると、どうしても「本当の自分」という言葉が口をついてしまいますが、唯一の絶対的な自分というものは存在しないのだと、2021年に私は引き受けました。だからと言って、「本当の自分など存在しない」では終わらせたくない。どこかこの世界に、安心する場所を見つけたいのです。


 少し悲観的になりましたが、もちろん生活の中には安心する瞬間はあります。

 信頼できる人たちと最近考えていることについて話しているPodcastの収録をしている時や、一人で本に向き合っているとき、そして、こうして考えていることを言葉にしている時です。ここに何かヒントがあるのではないかと思います。

 僕が、『あの日の交差点』でゲストにお迎えしてきた方々は、大きなものに回収されない自分だけの楽しみを持っているように思えるのです。それは、楽しむ対象というよりは楽しみ方と言った方が良いでしょうか。

 リアルでもバーチャルでも「どう楽しむか」「どう語るか」という文脈より「何を楽しむか」「何を語るか」という記号に行きがちな今の状況から、せめて自分たちの手で自分たちを守りたい。できれば、周りを巻き込みながら。

 『あの日の交差点』はそういう場所を目指しています。


ウェブサイト版『あの日の交差点』



 では、このウェブサイト版『あの日の交差点』では何をするのか。


 ウェブサイト版『あの日の交差点』には2つのテーマがあります。1つ目は、読み手が書き手を追体験すること。2つ目は、書き手のリファレンスをアーカイブすることです。

 まず、大前提として、私たちは書き手として、鋭い批評や圧倒的な情報量を提供することはできません。では、私たちは何を書くことも許されないのか。何の語り口を持っていないのか。

 先に私は、記号より文脈に意味があると考えていると述べました。だからこそ、「何を知っているか」、「何を言えるか」という記号より、「なぜそれを知ったか」、「それを知ってどう思ったか」といった文脈の方に意味があるのではないでしょうか。そして、私たちのような何の専門家でもプロでもない者がそのような文脈を書くと言うことは、素人がちょっとずつ詳しくなっていったり、未熟で偏狭な思考が少しずつ成熟していく過程を残すことになるはずなのです。私はそういうものを読んでみたい。

 まだ何者でもない私たちが、何かに熱中したり考えたりする過程はひょっとしたら未熟かもしれないし、数ヶ月後には真反対の考え方になっているかもしれない、なんなら半年後には全く別ジャンルのことに熱中しているかもしれない。それならなぜ、真反対になったのか、なぜ別ジャンルに関心を持ったのか、そこには発見や一見異なるものの結びつきといった知的なジャンプ=価値転倒があるはずです。そのジャンプのメタファーがこのウェブサイトおよびPodcastのタイトルにもなっている「交差点」です。

 そこで、このウェブサイト版『あの日の交差点』では、書いてくださる方々から見えている風景を定点観測したいと考えています。いろんな人にお願いして連載やエッセイや小説などを掲載したいなと考えています。それぞれの方から見えている風景(関心ごと)を、語り口や知識量、PV数などに気を使わずに語ってもらいたいのです。語り口や知識量、PV数、流行りなどに気を使わずに、もしくは、自分なりの流行りの楽しみ方などを、お笑い、ラジオ、音楽、アイドル、旅行、映画といった趣味から、関心のある書籍や学問などまで、さまざまな内容をそれぞれの観点で語ってもらいたいと考えています。


 私たちはどうしても、「個性を市場や情報環境の流れの中で無理やり求めようとした結果、自己主張は消費の一部に回収されて無害な記号化に陥ってしま」います(遅いインターネットこれからの「吉本隆明」の話をしよう 』より)。

 それを私は『「消費者」として消費される』と言い、「フィルターバブルを選ばされている」と言いました。どうにかしてそこから抜け出したいのだけれど、決して抜け出すことができない。気を抜けばフィルターバブルの差異化に陥って記号になってしまう。しかし、フィルターバブルの中での振る舞い方やフィルターバブル間での思わぬジャンプ=価値転倒には、SNS上の終わりのない差異の消費に円環することのない確かな文脈がそこにある。

 私たちは誰かに価値転倒を与える文章を書こうとしても書くことはできないかもしれない。しかし、私たち自身にとっての価値転倒を蓄積することは結果的に誰かの価値転倒を促す可能性がある。つまり、その人特有のジャンプを蓄積(アーカイブ)することは、それを読んだ人のジャンプにもなり得るかもしれないのです。だからこそ、私たちは、ジャンプとリファレンスをなるべく蓄積(アーカイブ)していきたいと考えています。いつか、誰かが関心を持ってくれた時のために、扉を開き続ける。私が欲しいと思っていたものを作ることが誰かのためになるかもしれない。

 情報を探すには、まとめサイトやランキングなどと比べて圧倒的に効率は悪いでしょう。しかし、このような書き手の文脈を通して新しく出会うものは、手札を提示され自動的に受け取るのとは何か違うのではないか、という可能性を感じています。


ウェブサイトとPodcastの位置付け。



 では、ウェブサイトとPodcastの位置付けはどうなるのか。

 現在、Podcastの収録は月に1,2回のペースで行っているため、お話を聞けるゲストの方も、頻度も限られています。しかし、長いインターバルの間にも、それぞれが見ている風景は確実に変化しており、新たにおもしろいことを発見したり、新たな関心ごとや考えごとが生まれているはずなのです。どうもPodcastではそれを掬いきれない。だけど、知りたい。そこで、ウェブサイト版『あの日の交差点』では、書いてくださる方を定点観測したいと考えています。いま何がおもしろいのか、何にハマっているのかを熱量のあるうちに書いてもらいたいです。

 そして、Podcastでは、それを受けて私が考えたことや、雑談、次の関心ごとなどについて話していければと思っています。

 言葉にできないものを言葉にできないまま出す場所としてPodcastを位置付け、自分の中で整理がついて言葉になったものを書き残しておく場所としてウェブサイトを位置付けます。




あの日の交差点



 さて、ここまでPodcastおよびウェブサイトを通して『あの日の交差点』で何をやりたいのかを書いてきました。これが現段階での私の考えです。2021年に一年かけて辿り着いたところで、その思考過程については私の連載『よどむ現在地 』を読んでいただければと思います。

 今、ここに記している考え方すらも数ヶ月後には変わっているかもしれない。それくらいの未熟なものかもしれません。しかし、未熟なものを未熟なまま、時には反省や軌道修正をしながら、その過程をそのまま残してみようと思います。

 自我を拡張させすぎたことのしわ寄せがきているかもしれない現代に対し、半径30mからやり直してみます。そして、今年はこの活動を通して、世界の覗き穴というか、裂け目のようなものを皆さんと探っていきたいと思っています。


 言ってしまえば、「気を使わずに話せる友人がいる」といったものだけで世界の手触り感は取り戻せるかもしれません。しかし、この試みは自分にとっても関わってくださる方にとっても無意味には思えないのです。その可能性を探りたい。

「関心ごととの出会いの瞬間からその延長線上の今まで」を蓄積することで、立場も環境も年齢も関心も異なる人々が交わる、交差点のような場所を作りたい。

 それぞれ自分にとっての「あの日の交差点」が集まったこの場所が、誰かにとっての「あの日の交差点」になることを願って。




2022年4月1日


真昼の深夜(まひる)

Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営しています。


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