大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第14回は、名古屋の街を散策しながら調べたことや考えたことの記録を残します。新たな時間感覚が芽生えました。
目次
名古屋市内の堀川を散策する
今日は家を出てから目的地を決めていないことに気がついた。ということで、堀川にそって歩いてみることにした。
発端は、名古屋に住む以上、名古屋の土地の歴史を知っておかないといけないなぁと思ったことにある。自分はどういう文脈の中にいるのかを知らないと不安になってしまうタチなのだ。そのような旨で教授に相談して見たところ 内藤昌『日本名城集成 名古屋城 』(1985)という本が良いと教えてくださったので、読んできた。
この本はとても素晴らしく、名古屋について知るための本の一冊目として相応しいものだった。というのも、名古屋城というタイトルながら、名古屋築城から城の建築的変遷を追うだけでなく、城下町の変遷も十分に記述しているからである。
特に現在自分が住んでいる地域が、名古屋城から近いこともあり、生活圏内の歴史的変遷がそこに記されているのである。名古屋という都市が発展してゆく中で、重要な役割を果たしたのが名古屋築城とともに掘削された堀川であった。
名古屋城下町の変遷
というわけで、今日は堀川を歩いて来たのであるが、その前にまずは名古屋について 内藤昌『名古屋城』(1985)をベースに整理してゆきたい。
東海地方は地理的に東西文化の交流の基幹的役割を果たし、それは現在でも感じることができる。この地理的背景によって、尾張名古屋の地理は日本の天下を讒謗する視座を歴史的に与えられていたと換言できる。
そして、律令国家時代、東海地方は京を中心とする近国であった。それゆえに、東海地方は鈴鹿の”関”より”東”にある=関東ということおで、京より東国辺境の前衛だった。
さて、名古屋(愛知県は明治以降にできるものなので、あえて名古屋で進めてゆく。)は名古屋という都市を形成する前はより広範囲的な濃尾平野の一部であった。その濃尾平野を中心とする東海地方が日本有数の穀倉地帯になるのは中世以降である。穀倉地帯となるのは木曽・長良・揖斐の三川とその三角州によるものであった。
8世紀、律令下で墾田の私財化を認められる=荘園の誕生である。14世紀、多くの荘園が生まれ、その中に那古野荘も見られる。このようにして、木曽川流域が発達してゆく。
そして、先ほども述べた通り、尾張名古屋は地理的に東西の要となるということで、徳川家康は注目をした。家康は尾張の政治的役割を江戸幕府の西国への前衛とみなした。これは、京に京都があった際の東国への護衛という役割から逆転した瞬間でもあった。このようにして、名古屋城の歴史的必然性はこうして整ってくる。
ここで、名古屋という名前の由来についても触れておく。名古屋は那古野、那護屋、那古屋などと記される。さまざまな説があるものの、最も有力な説とされているのは、「ナ」(古語の魚)→「ナコ」(漁夫)→「ヤ」(家)→「ナゴヤ」(漁村)というように漁村を意味するものではないかというものである。全国的に「ナゴヤ」という地名が見られ、その多くが漁村であるということが根拠である。表記が「那古野」から「名古屋」に変わるのは16世紀とのこと。
ここから先の名古屋築城から現在までの変遷はまたの機会に書くとして、次回からは堀川にフォーカスしてゆく。
堀川
このようにして、名古屋築城へと至ったわけだが、そもそも堀川は熱田と名古屋城を結ぶために開削された。これによって、外港の要所となってゆき、川に沿ってまちが発展してゆき、桜の名所としても知られた。しかし、高度経済成長期に生活排水や不法投棄によって堀川は汚染され、今でもその美しさを取り戻すことはできていない。
また、忘れてはならないのが、第二次世界大戦下の大空襲である。その大空襲の中でも特に集中的に狙われたのが軍需工場が集積していた熱田の付近である。もちろん、名古屋城と熱田を結ぶために開削された川である堀川も熱田を流れていることになる。
当時、空襲を経験された方は、堀川が真っ黒に染まったとおっしゃっている。(毎日新聞なごや支局【編】『よみがえれ堀川: 「まち」と「川」を「ひと」でつなごう 』(2008))
自分の目の前の川はその上で流れているのだ。
それをひしひしと感じた
さて、堀川散策マップで見ると、日置橋のあたりから上流に向けて歩き始めた。
しばらく歩いていると、頭上には円形の虹が見える。こんな綺麗に円形の虹が見えたのは初めてだ。
天王橋を越えると船着場のような場所が見えてくる。今でも使われているのだろう。
さらに直進すると、納屋橋に差し掛かる。
納屋橋は堀川に架かる広小路通の橋であり、堀川が開削された時に架けられた。付近の地名をとってこの名になったという。名古屋の名橋として人々に広く親しまれてきた。納屋橋付近になると体感的にもまちが視覚的に賑やかになってくる。やはり堀川と広小路通はメインストリートなのだと実感する瞬間でもある。
ここで、広小路通についてだが、広小路通は万治3年の大火によって城下町が灰燼に帰っしたことで、延焼対策として道幅が広げられたものである。道幅は広いけれど、両側にお店が集まることで、人々が集まり、人と人との距離が近くなるという意味で「広小路」と名付けられたとか。
これが、名古屋の特徴でもある100m道路にも繋がってゆくのである。
納屋橋を越えると、川辺に降りられるようになっており、そこには情緒を感じる石畳が敷かれ、角には堀川ギャラリーがある。
しかし、今日は月曜日、、ということで休館日。余談だが、自分が「よし!出かけるぞ!」という気になるのは大抵月曜日なので、行きたいところは大体閉まっている。今日だって、「ノリタケの森」にも「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」にも行きたかったんだ。。。
それは置いておいて、実際に、降りて歩いてみると、水は決して綺麗だとは言えないが、悪臭などはなく、水辺の風の気持ちよさがある。すぐ横には道が走っているにもかかわらず、都市の喧騒を忘れてしまうほどである。(気のせいかも。)両岸にもう少しリラックスできるスペースがあると良いなぁ。
さて、京都で育った身としては、名古屋を歩いていて感じる違いが大きく二つある。一つ目は、さまざまな形、大きさの建物が乱立していることである。そんなことやっていいのかという建築的な面白さを持った建物が、道を歩いていると立ち並んでいるのだから面白い。逆に、それゆえに統一感はなく、雑多な雰囲気があり、それはカルチャーにも影響を与えているのではないかと思う。やはり、名古屋は外国だ。
二つ目は、第二次世界大戦の影響をモロに受けている土地というのを肌で感じるということである。先程の、堀川が黒く染まったこともそうだし、何より、自分が住んでいる土地、歩いている土地が灰燼に帰っしているのである。それはもう、立っているだけで、当時の焼け野原が目の前に浮かぶようで、自分の歴史的文脈というのを再確認するのである。
自分の不勉強を棚に上げて言うと、個人的には京都は昔ながらの建物は残しつつ、近代の歴史がすっぽりと抜けているように感じるのである。であるから、歴史都市と言われても、自分との接続がない。
2022/3/24 追記
一方、名古屋は、戦後復興から現代まで地続きで来ているのを感じるので、やはり、自分が過去・現在・未来という歴史的文脈の中にいると強く感じるのである。この感覚は自分の時間感覚に変化を与えているように感じるのだが、まだうまく説明できないので、ここからまた、堀川を歩くことにする。
2022/3/22 追記
頭上に円環の虹が見える昼下がり。納屋橋、錦橋と超えてしばらく歩くと、うどん屋があったので、ちょうどお腹も空いていたことだし入った。
11:30に人が来るとは思っていなかったらしく、慌てて準備していたので申し訳なかった。
店内は開口部が多く開放的で、海の家に入ったかのようなゆったりとした時間と風が流れている。
うどんも鳥天もおいしかった。
堀川沿いに窓を開けていながら、ご飯を美味しく食べることができるという事実が、堀川の水質改善事業が進んでいる証左になるのではないだろうか。歩いていても、ましてや食べていても気になる悪臭はなかった。(透明度はまだまだだけど。)というのも、この辺りになってくると水質改善工事をしている様子がよく目に入ってくる。
さて、うどん屋を後にすると、木材加工業者のようなものが見えてきた。
川に降りていくようなつくりになっており、川が交通の主流だった時代に想いを馳せる一瞬である。こんなところを自分の目で見たのは初めてだったので、嬉しかった。
さらに歩を進めると、左手に商店街らしきものが見えてくる。そこで、左折して橋をわたると、そこはどうやら四間通(しけみち)という歴史的な道のようだった。
四間通は、元禄の大火の後、延焼を防ぐ目的や商業活動の為、道幅を四間(約7メートル)に広げたことからその名がついたと言われている。太平洋戦時の激烈な空襲被害の中で、幸運焼け残った数少ない都心エリアのひとつである。石垣の上に建つ土蔵群と軒を連ねる町屋が通りに面して建ち並んでおり、戦前の姿を現在も残している。消失を免れたため、戦後も区画整理の対象にならなかった四間エリアは前近代から続く路地と町屋がつくる都市空間を器として、近年、古民家のリノベーションが盛んな流行りの街になった。名古屋市の街並み保存地区に指定されている。
しかし、愛知県立大学教授の竹中克行氏によると四間道1本を見ていては四間道エリアの空間=社会の成り立ちは理解できない とのこと。土蔵と町屋がコントラストをなす四間道は、近年、散策のメインルートになっているが、元を正せば大船町通の裏筋に過ぎなかった。
また、今日に残る「伊藤家住宅」は、大船通を挟んで堀川から四間通に至る空間の一体利用を体感できる貴重な例だと説明する。
そして、氏は熱田台地西縁の地形落差とそこに開かれた堀川をフレームとして、職業階層ごとに南北方向の帯状に形成された都市空間のあり方は、堀川を挟んだ都心エリアの今後を考えるうえで多くの示唆を与える と結んでいる。
そして、先ほどみた商店街は、どうやら円頓寺商店街というらしい。
調べてみると、円頓寺商店街は名古屋の三代商店街の一つに数えられたが、1960年代をピークに緩やに衰退した。店舗数は激減したものの、シャッター街と化すことはなく、昭和初期からの老舗は繁盛するというチグハグさがこの商店街の面白いところだったのだろう。
ちなみに、衰退した原因の一つに公共交通機関の路線変更や大型店の進出、後継者不足など、まさしく高度経済成長期の煽りを受けているのだが、それに対応できなかったことも大きな原因になっていると言われている。つまり生き残った老舗は、ちゃんと対応していったということである。
円頓寺商店街のように緩やかに衰退していった商店街の再生には、急速な再開発ではなく、衰退してきた歴史を逆に遡るように時間をかけた再生が求められるとのこと。
そこで、まず考え始める一歩として、衰退の歴史の中で老舗は「なぜ生き残ることができたのか?」また、それがその地域で「どのように利用され続けてきたのか?」を探ることから始まったのだとか。そして、導き出した法則は、商品のオリジナル性と名物店主という存在だった。この魅力を引き立たせることに注力し、少しずつ賑わいは戻りつつあり、新旧が絶妙な関係を保ちながら、それぞれを引き立たせ、時には融合させて新しい魅力を創出している。
商店街を歩き終えたあたりで、かなりヘトヘトになっていたのだが、いうことを聞かなくなってきた足を頑張って前に進める。川幅も狭くなってきて、悪臭も少しずつで始めたあたりで、名古屋城の天守閣が姿を現す。
写真で見ると少し遠く見えるけれど、名古屋城の堀があるので遠くに見えるだけで、名古屋城自体はすぐそこである。名古屋城を越え、名城公園で本を読みながらゆっくり休み、帰路についた。
(ちなみに読んでいたのは 河合俊雄, 中沢新一, 広井良典, 下條信輔, 山極寿一『〈こころ〉はどこから来て,どこへ行くのか』(2016))
参考資料
ちなみに、名古屋にはたくさんの大きな公園がある。それはすごく特徴的だし、なぜだろうと疑問に思っていたのだが、理由がいくつかあるようだ。一つ目は、都市開発。もう一つは、軍事用跡地の利用。名城公園は後者に当たる。
名古屋のデス・スターこと名古屋市科学館や名古屋市美術館がある白川公園も米軍駐屯兵用居住区の跡地だそうだ。やはり、先の大戦とは切っても切り離せない土地である。
2022/3/24 追記
帰り道はZIP-FMを拝み、いつも散歩に来るテレビ塔を違う角度で見ながら、丸善で面白い本がないかなぁと寄り道などして帰りました。
「愛知・名古屋 戦争に関する資料館」に行きたかったんだけども、何しろ月曜日なので休館日でした。
この散策をしながらPodcast番組『a scope ~リベラルアーツで世界を視る目が変わる~』の北川拓哉さんゲスト回を聞いていたので、写真を見ると物理学の話を思い出します。
『a scope ~リベラルアーツで世界を視る目が変わる~』の北川拓哉さんゲスト回
以上、堀川散策でした。
開削当時のように護岸地に大きな緑が育ち、名古屋の生態環境の一部をなす「第二の自然」としての姿が取り戻さされることを願っています。楽しかった。
大須商店街
名古屋城下町について調べたので、大須について調べておきたかった。
大須の歴史を遡ると、名古屋城の城下町に行き着く。まずは、城下町について少し整理した上で、現在の大須まで時代を下っていこうと思う。参考資料は内藤昌『日本名城集成 名古屋城 』(1985)、名古屋圏の建築家と建築編集委員会 名古屋工業大学伊藤孝紀研究室『名古屋圏の建築家と建築 (シリーズ:地域の建築家と建築』(2019)などである。
名古屋の城下町は中央に整然たる格子状の町割が実施された。いわゆる、唐の長安由来の平城や平安のそれである。城下町は封建社会の身分制による住区が明確であり、武家地・寺社地・町人地に分かれる。大須はこのうちの寺社地に由来する。
寺社地の分布は次の二つに大別される。集団的なもの(宗教別)と散在的なものとである。散在的なものは、宗教別に大体のまとまりを持って計画的に配置された集団的なものと異なり、元より別格の扱いを受けた名門寺社・大寺などである。例えば、熱田神宮などはこれに当たる。
宗教別に大体のまとまりを持って計画的に配置された集団的なものの多くは、基本的に名古屋城築城前の尾張の政治的中心であった清須の分布に由来している。町がそのまま移転してきたと言うこととである。想像もできないほどに大規模である。これを俗に、清須越と言う。
その集団的なものも次の三つに大別される。大須付近の南寺町・小川町,松山町の東寺町・その他大曽根付近の城東地域の防備である。ここでは、本題の大須付近の南寺町についてのみ注目する。熱田に抜ける本町通の延長に設けられており、臨済宗、曹洞宗、禅宗の大寺院ほか、真言宗の大須宝生院=大須観音 北野山真福寺寶生院、西本願寺掛所(別院)など広大な自社が熱田までの街道を固める。そして出てきました、真言宗の大須宝生院=大須観音 北野山真福寺寶生院。これが、大須の大目玉、大須観音である。
大須観音も位置している南北軸である本町通があるが、名古屋の南北軸の主軸となるには幅員が狭かった。そこで、1908年に栄と熱田町を結ぶ南北の新主軸として大津通が整備された。
それによって大須は大きく変化した。1912年(昭和45年/大正元年)に万松寺が寺領を商業地に開放したため、門前町が発達し一大繁華街に発展してゆく。
名古屋城下が都市として繁栄すると、同時に芸能も発展してゆくことになる。大須付近では芝居小屋が多く誕生し、江戸時代の大須は芝居小屋の街として隆盛を極める。その名残が大須演芸場として残存している。
時代は下り、芸能の中心は芝居小屋から映画館へと移り変わってゆく。かくして、大須は一大映画街として栄華を誇ることになる。さらに時代が下ると、テレビが普及し、大須は映画街としての勢いを失ってゆく。
ちなみに、映画街として栄えたのは大須だけではない。例えば、伏見などもその一つだ。
伏見と聞くと京都を思い出すが、関係はあるのだろうか。
調べてみると、名古屋の伏見という地域は清須越の際に移転してきた町ではなく、名古屋城下町で新出した町のようだ。
これは「天下の格」たる名古屋築城にあたり、京伏見の先端的知識人、技芸者たちをお城近くに居住せしめたことに由来する。
つまり、たまたま地名が同じなのではなく、京伏見を名古屋に持ってきたのである。
そんな映画街として栄えた大須も伏見も、大須シネマと伏見ミリオン座を残すのみになった。
(今の伏見は正直何をやっている町なのか、行ってみてもよくわからない。オフィス街と飲食街の狭間っぽいんだけど、なぜか閑散としてる。)
昭和には映画の時代も終わり、大須は電気街へと変わってゆく。電気屋街となると、秋葉原のようないわゆるオタクカルチャー的な側面も同時に発達する。そして、さらに時代が下った現在は電気屋街としてのピークが過ぎたあたりかな?という状況である。
このようにして、門前町として始まり、芝居小屋、映画館、電気屋街と繁栄の中心は変わりつつも、人々の中心地であり続ける大須。その全ての歴史を引き継ぎ、お寺、門前町としての食べ歩きの飲食店、古着屋、レコード屋、演芸場、映画館、電気屋街、オタクカルチャー、最新のスイーツなど多種多様な文化が混在し醸成されている。
現在は電気屋街としてのピークが過ぎたあたりかな?言いつつ、人が多く行き交う賑やかな商店街であることには変わりはない。
もし、電気屋街としての側面がさらに失われたとしても、大須という町は必ずや次なる中心を見つけて、その存在感が失われることはないだろう。
生きているうちに違う姿の大須を見られたらおもしろい。
(おわり)
※本稿は2021年9月13日に書いた文章を加筆編集したものです。
参考資料
真昼の深夜(まひる)
Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営。
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