大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第26回は、BUMP OF CHICKENの『Small world』を通して、セカイ系を乗り越える可能性を考えました。
前回、『 #25 セカイ系を考えることは、自分の生活を考えることそのものである 』ということについて書いた。
何も、これまで全く セカイ系 について考えてこなかったわけではない。
なぜならば、長らく愛聴している BUMP OF CHICKEN が、セカイ系という切り口で語られることが多かったからだ。
しかし、セカイ系の価値観が全くわからない自分にとって、セカイ系的なBUMP OF CHICKENの歌詞はいまだによくわからない。
よくわからないのは、君と僕が世界の全てになる、みたいなことが全く想像できないからである。
前回、「セカイ系の発動」を擬似熱中のパターンの一つなのではないかと考えていることを書いた。
セカイ系は擬似熱中でありながら、現実逃避に終始しない可能性を感じている。
そのヒントになりそうなのがBUMP OF CHICKENの『Small world』なのである。
この曲の歌詞は非常にセカイ系的である。
冒頭では主人公の孤独が歌われ、サビでは世界の何もかもが僕らには関係がないと歌われる。
そして同時に「一緒に笑ったら その時だけは全部 僕らのもの」とも歌われるのだ。
しかし、君との出会いがある種の救いになり、その話に終始するセカイ系とは少し異なる点が、この曲には二つある。
一つは、君と一緒にいようとするというより、「君のことを想像しようとする」こと。
もう一つは、最終的に「関係ない世界が 僕らを飲み込む」ことだ。
前者には擬似熱中とは異なるセカイ系の発動の希望を見出し、後者にはセカイ系の出口=現実逃避に終始しない何かを見い出せそうな気がする。
※この曲の「君」は時に「僕」自身のようにも聞こえ、時に他人の「君」であるようにも聞こえる。どちらでもあるのだろうけど、ここでは他人の「君」として捉える。
これはセカイ系に限る話ではないだろうが、誰かと(過剰に)繋がろうとすることや、(恋愛に限らず)運命的な出会いによって孤独から脱出しようとする人は多いだろう。
そして、それは一歩間違えば擬似熱中へと一直線に進むことになる。
しかし、『Small world』で孤独を抱える「僕」は、
まぶた閉じてから寝るまでの
と、「想像力」で孤独を乗り越えようとする。
これは、『独りで「いる」』ということに近いかもしれない。
「君」のことを「想像することができる」ということが、「僕」の存在肯定になっている。
「君」が「僕」を肯定するのではない。
ある意味で自己完結するのだ。
セカイ系に漂う現実逃避感と一線を画すのはこの点である。
大嫌いで不甲斐ない自分を抱えながら、しかしそれと訣別することができずにここまで生きてきてしまったこと。
そんな孤独と世界の残酷さを知っているからこそ、「僕」は「君」のことがわかるのだ。
どうしてわかるの 同じだったから
そういう存在肯定。
自分達以外の人々が輝く世界が、決して自分のためにあるわけではなくても、「君」と「僕」がどれだけ自己陶酔的で、どれだけ平凡で、どれだけささやかな世界に生きていようと、その瞬間にそこにあるものは全て「僕らのもの」だと感じることができる。
そこに幸せがあるのだ。
幸せになるのは「幸せ」の定型を手に入れるからではない。
そこに、新しい人生を作り出していく契機があるから、あるいは新しい人生そのものだから、幸せなのだ。
この新しい人生とは、決してなくならない孤独を持ちながらも確かな手触り感を持って世界に実存できるということだろう。
ここが非常にセカイ系的である。
しかしそこにあるのは、無条件の愛を求めるボーイミーツガール的なセカイ系ではなく、相手の孤独を想像するという「想像力」をもって自分の孤独を乗り越える契機を見出すセカイ系である。
そして、最終的には、
関係ない世界が 僕らを飲み込む
のだ。
こうして、『Small World』は、孤独によって世界に没入できなくなった「僕」が、「君」の孤独を想像することで新しい人生を作り出していく契機を見出し、セカイから世界に飛び出してくることを歌っている曲として聴くことができる。
「僕」は小さなセカイに「他者を想像する」という仕方で没入することで、世界に没入する契機を見出したのだ。
これはほんとうに、すごいことだと思う。
とても成熟している。
(おわり)
※この文章は2022年8月23日に書いたものです。
参考資料
真昼の深夜(まひる)
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