先日、今年の読んだ中でも特に興奮した『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』という本の、自分の感想( あの日の交差点 『【番外編】#15 受け取って流す 』)に著者から返事をいただくというとんでもない出来事があった。さらに、『世界は時間でできている』を出発点に、全く違う話に展開させたのだけど、そこに言及してまさに「それです」と言ってもらえたのが嬉しかった。
さて、この本の中身がおもしろいのはもちろんのこと(読んでみてください)、自分のどういう問題意識のなかに位置付けられたかということをメモ程度に残しておこうと思う。
これは同時に個人的な2022年のパースペクティブの記録である。
2020-21年、コロナ禍と一人暮らしの開始という合わせ技によって、究極の孤独に陥った。なんとかエンタメやら本やらに助けを求めるけれど、世界が手からすり抜けるような虚無感と宙吊り感があった。ぎりぎり言葉と思想に助けられてここまで生きてこれた。この時期に、それまでより本を読むようになったのは、生きるためだった。
いろんな読書体験があるけれど、このとき僕が熱中していたのは、言葉によって世界をクリアにしていくタイプの、いわゆる批評的な文章だった。
そのせいか、世界を「頭(言葉)」で捉えるようになっていた。そしてそれは、それまでの自分にはない新鮮なものだった。
22年初頭、「世界を『頭(言葉)』で捉える」状況が行きすぎたのか、身体で生きている実感を失っていた。
ちょうどこの辺りのタイミングでWeb版『あの日の交差点』と、兄との雑談を配信する【番外編】を始めました。(Webでやりたいことはたくさんあるので2023年以降も少しずつリニューアルを重ねていこうと思います!)
さすがに「これではまずい」と思い、「今年のテーマは『身体性を取り戻す』だ!」と息巻いていた。
その結果、街を歩くようになったし、ちょっと体を動かしてみるようになった。
それに合わせて、大学に登校する回数も増えて、次第に身体性を取り戻していったように思う。
それからしばらく、散歩が楽しくてたまらなかった。
毎日同じ道をひたすら歩いた。
高揚する時もあれば、ひどくつまらない時もあった。
落ち込んで街に高揚を求めて歩くとき、そこに高揚は立ち現れない。
この世界に、自分の欲しいものなど何もないのだと半ば絶望し、天然芝に座り込んでテレビ塔を見上げたとき、そこに全てがあった。
僕が街に何かを求める時、街は僕に何も与えてはくれない。
しかし、僕が街に何も求めない時、街には全てがあるのだ。
そして、その全てが”必要ない”とき、幸福が立ち現れるのだ。
「『全てがあるけど、何も必要ない』という幸せがあるのだ」と、このとき初めて気がついた。
この頃から、「興奮と虚無」のようなものについて関心が芽生え始めた。
僕は、常に「楽しいこと」「興奮すること」を探している。そして、それは不健康な域にまで踏み込みつつある。
興奮、すなわち熱中するのはなぜなのか。いや、熱中して”いたい”のはなぜなのか。
デバイスやコンテンツが溢れているから…といった環境の話ではなく、もっと心理的な要因を探りたかった。
熱中、ないし擬似熱中の一種である「セカイ系」の発動の契機についても同時に考え始めた。
世界の手触り感が不足している時、手の届く範囲を「セカイ」とすることで擬似的に手触り感を獲得し、擬似的に熱中する。
しかし、セカイ系の発動は単なる現実逃避に陥らず、必ず出口がある。( 映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(2022) でシンジが宇部の街に出てくるように!)
それは、「新しい人生を生きていく可能性を見出し、それを幸せの契機とする」という仕方で。(この幸せのあり方は 映画『晩春』(1949) を見て腑に落ちました。)
そして、BUMP OF CHICKENもまた、異なるセカイ系の可能性を歌っているように思える。
実生活のうちほとんどが「自我」によって動かされている。
それはすなわち、主客がはっきりと分化している状態だ。
この状態だと、冷静でいられるのかもしれないけど、あまりにこの状態が優位になると自我の支配が強くなりすぎる。
主客がどんどん離れていき、しんどくなる。
そのしんどさを忘れるため、つまり自我を忘れるために”興奮すること”を求めてしまう。
しかし、興奮にも純度というものがあって、インスタントな興奮は望んでない消費をだらだらと続けることにしかならない。
こういうのを擬似熱中と僕は呼んでいる。セカイ系もファスト教養もここに含まれる。
擬似熱中があるということは熱中があるということで、これは純度の高い興奮である。
次なる興奮を呼ばない、それだけで満足してしまえるもの。
これを「熱中」ないし「動物になる瞬間」と呼び、退屈な日々を生きていく希望を見出したのが國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』だった。
熱中している時、そこに自我はない。つまり、熱中によって主客未分に至ることができる
「主客分化」と「主客未分」の間を揺れ動いている時、僕はきっと健康的に自立できる。
そして、僕は現在、主客分化が優勢になっているため、いかに主客未分に至ることができるかというゲームを生きている。
これは情報環境論と自立という宇野常寛の議論と、道徳の過渡期のそれぞれの自立への挑戦を描いた太宰治の『斜陽』にも接続され、さらにこのあたりに、ベルクソンの時間論と自我の起源の議論を挟み込むことで「より自我を相対化できないか」と、ぼんやり思っている。
少し議論を異にしながらも、 谷川嘉浩『スマホ時代の哲学』<ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2022> という本もこのような論の展開になっていて、「今年一年考えてきたことが本になっていた…!」という驚きがあったのが11月である。
なるべく擬似熱中に陥らないように熱中に至りたい。
しかし、熱中も手放しには礼賛できない。
というのも、熱中はポジティブな力が強すぎて、乱発するものではないと思うからだ。(乱発すると中毒化して擬似熱中に降格してしまいそう。)
そこで、もう少しフラットな主客未分化の方法を探りたい。(図で言うと第二象限に行く方法)
個人的に可能性を感じているのが、散歩、料理、お風呂上がりのベランダetc…。
これらをしているとき、自分がなくなっていく感覚がある。
そしてそれがとても心地いい。
散歩、料理、お風呂上がりのベランダ...。そう、生活である。
生活。
このキーワードで思い出されるアーティストがいる。
小沢健二 だ。
小沢健二を聞き、彼について話しているとあることに気がついた。
人やものにはそれぞれ固有のリズムが流れていて、それが他の人(もの)や場所のリズムとシンクロしたりズレたりしているのではないか。
そして、自分のリズムを上手く掴むことができる人とそうでない人がいる。多くの人はきっと後者で、僕も後者である。
ときたま、自分のリズムを上手く掴むことができた人が、それをアウトプットすることがある。それが小沢健二で言うと、歌なのだ。
このような、固有のリズムを内包したアウトプットは、強烈に人々を照射し、自分では掴みにくいリズムと共鳴し、そして誘発する。
だから、音楽に助けられたり、解放されたりする。
そして、そういうものが”文化”であり、”芸術”なのだ。
この発見を経て、改めて2022年初頭の「身体性を取り戻す!」というテーマを振り返ると、これはきっと「自分のリズムと生活のリズムを調和させていく」ということを無意識に目指していたのではないかと思い始めた。そしてこれは、そのまま2023年のテーマになってゆくだろう。
ポジティブすぎない主客未分。
これに至る方法として”生活”に希望を見出し、そしてポイントはリズムであるというのが、現在見えているパースペクティブである。
(了)
参考