大学生のまひる(真昼の深夜) が日常的に考えていることや悩んでいることを、映画や本、音楽などからヒントを得ながら”現在地”として残してゆく不定期連載『よどむ現在地 』。第22回は、「瞬間的な快楽」というキーワードから、なぜ快楽を得ようとしているのか?興奮しようとしているのか?について考えました。
目次
振り返り
前回、『 映画『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』(2022) 』と 乃木坂46 の『 乃木坂46 10th YEAR BIRTHDAY LIVE 』によって提起されたサプライズとの向き合い方について考えたところ、「瞬間的な快楽」というキーワードに行き着いた。
私はここのところ、ずっと自分は興奮できることを探しているのではないか?と思うようになってきた。まるで自分の状態が、興奮している状態と興奮していない状態のふたつしかないようで、さらにそれを「興奮している状態=楽しい状態」「興奮していない状態=つらい状態」として捉えてしまっているのではないかと。特に後者、「興奮していない状態=つらい状態」は不健康だ。興奮していない状態は興奮していないだけであって決してつらいわけではない。しかし、それを”つらいと勘違い”しているのだ。この問題について考えてみたい。最終的には”興奮していないこと”に耐えられるというか、気にしなくなることが目下の目標である。しかし、興奮していない状態につらさを感じるということを、興奮していない状態から考えるにはどうも付け焼き刃的な解決策しか浮かんでこない。そこで、まずは興奮している状態から考えなければならない。興奮や快楽について考えるとき、加速度が重要な要素になることは前回述べた。今回は、なぜ興奮しようとしているのか、このことについて考えたい。現時点では、何かしらの孤独感やつらさから目を背けるための興奮・快楽を求めてしまっている時があると考えている。
そこで今回は、まず、その孤独感というか釈然としなさについて「対自分」と「対人」の側面から確認してみたのち、その内容とちょうどこの1ヶ月読んでいた 國分功一郎, 熊谷晋一郎『<責任>の生成 中動態と当事者研究』<新曜社, 2020> とに、重なる部分があったので、その力を借りてなぜ興奮しようとしているのかを考える。
「みる」「する」「いる」
まずは、対自分について。
ここ最近、「ずっと興奮していたいこと」について考えている。
常に、生活に満足感がない。ずっと、心にぽっかりと穴が開いている。そして、それを満たしてくれるであろうことがこの世界には思い当たらない。それは今も、これまでも、そしてこれからも。窓から見える世界はそこに触れられている気がしないし、大学の教室で座っていると今すぐにでも床が抜け落ちて奈落に突き落とされそうな感覚になる。大学に入学してもから2年と少し、ずっとずっと、現実が手をすり抜けている。こう思ってしまった時の孤独感ははかりしれなくて、まだ、根本的な対処法が見つからない。
あれ、こんなんだったっけと、毎日のように思ってもう、2年くらい経ってしまった。
最初は、「好きなことをすること」で乗り越えようとした。映画もたくさん見たし、ラジオもたくさん聴いた。でも、これは全く乗り越えることにはならなかった。むしろ、現実がさらに遠ざかっていった。それを決定付けたのが『花束みたいな恋をした』だった。好きなものに囲まれていると、何者かになった気になれるけど、結局素晴らしいのはその「もの」(こと)であって自分ではないし、「何者かになるために『好きなもの』に囲まれている自分」の浅はかさみたいなものを突きつけられたのだ。「ああ、自分は結局、そこまで好きじゃないのかもな」と思ってしまう。映画でもなんでも。
そして、今度は、こういう『花束みたいな恋をした』的なメンタリティからどうやったら抜け出せるか、ということに直面した。
それは、「『好きなもの』に囲まれている自分」じゃない方法で自分を捉えようとすることで乗り越えられると思ってたし、乗り越えられたと思っていた。
でも、まだ私は、ここから抜け出せていないようだ。
割と自分の中では頑張ったと思えた課題を終えて、『トップガン マーヴェリック』を映画館に見に行った。その帰りに自転車を漕ぎながら髪を靡かせて、地面スレスレに車体を倒す印象的なマーヴェリックの曲がり方をし(た気持ちになり)ながら、気に入っている個人経営の書店に向かった。
そこで手に取った 東畑開人『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)』<医学書院, 2019> の第二章にこんなタイトルがついている。『「いる」と「する」 とりあえず座っといてくれ』。この章は、東畑さんが博士号を取得後、アカデミアの道に進むのではなく臨床心理士として現場で働きたいと考えたことから行くことになった、沖縄でのデイケアの日々の記録が記されている。そのデイケアに通う方は、朝八時半から夜の十八時半までの10時間をデイケアで過ごすらしい。そして、その10時間のうちのほとんどが自由時間として割り当てられているようだ。それも何かを「する」自由時間ではなく、ただ「いる」自由時間だ。デイケアに通う方々は社会の中で「いる」のが難しい。だからこそ、デイケアでは「いる」ということを徹底しているようだ。そして、東畑さんの仕事は「いる」のが難しい人と一緒に「いる」というものだった。しかし、「いる」というのは簡単ではないようで、東畑さん自身が「いる」ということにどう向き合ったら良いのか、すぐに「する」に逃げてしまわずに「いる」にはどうしたら良いのか、「いる」とは一体何なのかを考えることになったのだという。最初は、「ただ”いる”だけ」ではつらく、何かをしているふりをしていたらしく、「する」ことがあると「いる」ことが可能になるらしい。しかし、うっかりカウンセリングを「する」ことで失敗した東畑さんは、「いる」ことを徹底しようと決意する。そうすることで、デイケアの中で人間関係ができてきた。一緒に運動したりゲームをしながら話すことで、世間話をすることで、深い話ではなく浅い話をすることで、ちょっとずつ周りの人のことが見え始めたのだという。そして、デイケアで働き始めて4ヶ月ほど経った頃、ただ座って「いる」ことを体得したのだ。「ただ”いる”だけ」でも居心地の悪さを感じなくなった。「とりあえず座っている」とは「一緒にいる」ということに気がついた、と東畑さんは言う。さらに、誰かに頼っている時、依存している時に「本当の自己」でいられて、環境に身を預けることができない時に「する」ことで「偽りの自己」を作り出すのだと言う。
参考資料
この章を読んで私は「する」→「いる」の順番で生活との距離感が縮まっているように感じた。
私が、生活の実感とか生活との距離感と言っている時いったい何のことを言っているのだろう。今はまだうまく言葉にできないけれど、おそらく、どれほど埋没できるかということなのだと思う。生活するよりも「生活すること」を俯瞰する自意識が強い時、私は生活に手触り感を感じていない。逆に、「いま〇〇している」と思わずに何かをできたとき、私はきっと生活に実感を持っているのだ。行為している自分に注意が向くのではなく、行為が全てになることで世界に埋没する。
東畑さんの「いる」と「する」に「みる」を加えて、生活の実感はきっと、次の段階で深まっていくのではないかと、今のところは思っている。
「みる」→「する」→「いる」
「みる」は、好きなものやことを受け取ること。映画を見たり、音楽を聴いたり。
「する」は、実際に、何かを作ってみたり、どこかへ行ってみたりすること。これは、すごく尊いことだ。自分以外のものに真剣に向き合う幸せを、私も早く手に入れたい。実際に、手を使って何かを作ってみたり、料理、絵、陶芸、なんなら園芸などしてみたい。うまくできるか、といった評価軸など及ばないところで、試行錯誤する楽しさを身体で感じたい。しかし、これは簡単にできる人とそうでない人がいる。私は、簡単にはできない人だ。この「する」は、もう少し言葉を変えると、目的のないただの手段として「する」ということだと思う。「する」ために「する」。これができるのは、元から向いている人なんだと思う。私にできるのは、せいぜい、歩くことくらい。そういう意味では、私は歩くことに向いている。他は、ただ「する」ことができなくて、すぐに上手さや満足感を求めてしまって嫌になってしまう。でも、したい。そこで、次の「いる」が関係してくるのではないか。
「いる」は、本当にただ「いる」だけ。それも、誰かと「いる」。それだけで完結するものだ。友達と一緒にいたい気持ちはきっと、これなんだろう。そして、僕に圧倒的に足りないのはこの「いる」なのだ。自分から心の壁を作ってしまって、大学では話せる人は増えてきたが、心のシャッターはまだ下りたまま。他にも、平日の夜に、たまに食事でもする関係にすごく憧れるが、もはやフィクションなのかなと思ったり。
この、「いる」が不足していると、世界の全てが「みる」ものとしてでしか、なかなか向き合えないのではないかと思っている。自分とは関係なくそこにあるものなのだ。そして、それがとても寂しい。
「いる」が不足していると、「する」も自分が「一人」で没頭できることしか「する」ことができないし、「みる」のも「これをみている自分が好き」みたいな「みる」ばかりになってしまう。そうではなくて、もっといろんな「する」にも「みる」にも挑戦したいはずなのに、孤独という二文字がそれらを楽しくなくさせる。まずは、ここを充足させないといけないのだきっと。
そうすると、書いているうちにだんだん、生活の実感は、
「いる」→「する」→「みる」
と開かれていくのではないかと思い始めた。
誰かと一緒なら「する」を楽しめることだってきっとあるはずで、山に行く友達がいたり、釣りに行く友達がいたり、食事に行く友達がいたり、、そういうのに憧れる。
そして、むしろ、一人でいることに耐えられるから、「ひとり」だからこそ没頭することができる「する」ことや「みる」ことに出会えるんだと思う。孤独がポジティブに働くようになるのだ。
生活の実感がないときは、「みる」が最も飛びつきやすくて私も飛びついたが、それは入口にすぎない。
きっと、生活の実感は、「みる」→「する」→「いる」と潜っていって、「いる」→「する」→「みる」と帰ってくることで、かなりその本質に触れられるのだと思う。(生活の実感とは何かという問いも同時に解けてくるはず。)
そして、自分はまだ、往路の「する」にやっと来たかなという段階だ。
(やっと「目的なく歩く」ということができるようになってきた。)
ここまで書いてみると、「いる」に耐えられないから「する」や「みる」に逃げてしまっており、だから、限定された「する」や「みる」しか体験できていないのだ、ということがわかってきた。そして、「みる」→「する」→「いる」→「する」→「みる」の往復という見方も信憑性を帯びてきたように感じる。「みる」や「する」が「いる」に比べて劣っているわけではなくて、「いる」から逃げるための「する」や「みる」だと、その一部しか体験できていないということだ。だからこそ、一度「いる」を経由することで、様々な「する」や「みる」へと開かれてゆく。
最近はずっと、自分は興奮することを探しているのではないかということを考えている。きっと、「いる」に耐えきれなくなって、興奮=「する」ことを探しているのだ。誰かと一緒に「いる」時でも、一人で「いる」時でも、絶望的に孤独を感じる。それから逃げようとしているのだ。つまり、興奮していないと、世界への孤独感を思い出してしまうんだと思う。
興奮することで世界への孤独感を打ち消そうとするのは、とても不健康だ。なんとか「いる」ことを獲得していくことで、興奮への態度も捉え直していけたらなと思う。これまでもいまも、まだ私は「いる」を獲得していないし、それがまだ当分の課題である。
そして、「いる」ことを獲得していくことで生活の手触り感を取り戻したいと考えると、どうしても「いま」がまだ途中になって「いま」に否定的になってしまいがちになる。その途中をいかに肯定するかも同時に考えなければならない。
誰のためでも、自分のためでもないし、代え難いほど幸福でもない
つぎに、同じようなことを対人について考え直してみる。
私はどこにいても基本的には徹底的に否定されている気持ちになってしまう。目の前のことをやっていても、もっと楽しいことがあるんじゃない?もっと正しいことがあるんじゃない?という声が絶え間なく聞こえる。時たまその声さえ聞こえないほどに、書くことや読むことに没頭できる瞬間がある。それはもう、変え難いほどの幸福である。しかし、しばらくすると、自分がそれほど楽しかったことが、他者からしたら極めてどうでも良く、無価値なことであることに対してどう向き合えば良いかわからなくなってしまう。なんならそんなしょうもないことで興奮していること自体をバカにされている気になってしまう。よく考えてみるとこれは対人の問題ではなくて、結局自分の頭の中の声の問題だ。
もっと楽しいこと、もっと正しいこと、に押しつぶされることなく、いまこの瞬間少しでも楽しいのだとしたなら、それだけを感じていられるようにするにはどうすれば良いのだろうか。
大学が忙しい時期になると、なかなか健康的な生活を送ることができない。それは、睡眠や食事、掃除といった身体的な健康に直接関わることだけでなく、精神的な健康もどんどん悪くなってゆき、「自分」でいる瞬間に耐えられなくなる。だから、作業中も家事の間も徹底的に動画や音声コンテンツに溺れ、自分と向き合う時間を極力少なくし、肉体としての「私」だけで機械のように身体を動かしている。自分でいることに耐えられなくて、何かに乗っ取られていてほしい。だから、片付けがあまりできないし、掃除もあまりできない。ラジオを聴きながら何かをすればうまくいくことはあるのだけれど、それは応急処置的な痛み止めのようなものであって、根本的な治療にはなっていない。
月に一度ほどある「課題以外のことができる休日」を迎えたとき、朝起きてふと、歩きに行こうと思った。家に居ても結局、望んでもいない時間の使い方をしてしまって自己嫌悪に陥るだけならば、何かをしてみようと。それは、やりたくて仕方がないことでもないし、することで何かにつながることでもない。ただ、なんとなくちょっとやりたいなと思ったにすぎないのだ。ただ、走っているとなんとなく充実感があるし、気持ちが良い。別に誰かに誇れるものではない極めて個人的な感覚だしそれで満たされるわけでもないけれど、「ほんの少し楽しい」みたいなことでいいのかなと思った。
そう考えてみると、”誰のためでも、ましてや自分のためでもないし、やったら何かが変わるわけでもない、変え難いほど幸福でもないけど、なんとなくやってみたかったしやってみたらちょっと楽しかった”みたいなことは、別にそれがやりたいからやるのではなくて、「何もやっていないよりかは良いのでやってみた」といった充実感なのかもしれない。そういう充実感があっても良いのかもしれない。なんなら、生活の大半がそういうもので埋め尽くされていても良いかもしれない。そう思うようになってきた。
望んでもいない時間を過ごすならば、自己嫌悪に陥らない程度にほんの少しやりたいことで生活を埋め尽くしてみる。
ここにはいられるなぁ
隣の人と同じ世界を見ていると思っているかどうかってかなり大事な気がする。
私は基本的に特に大学で隣の人と違う世界を見ていると思っていて、それが疎外感に繋がっている。どうしても、ある種の競争相手として隣の人を見てしまう。だからこそ、敵対心を持ってしまって警戒してしまうし、馬鹿にされているとも感じてしまう。自分がどんなアウトプットをするかで居場所を勝ち取って行く場所だと感じてしまっている。これはまさに、臨床心理学者の東畑開人さんがおっしゃっていた「『よき生産者になる』ことが推奨される時代に、人の話を聞くことができない」問題に直結する。(東畑開人.Tattva vol.5.”人生の学びは「聞いてもらう技術」からはじまる” )
私たちはよき生産者になることを求められる社会に生きている。そうすると、周りの人が皆、競争相手になってしまう。そして、敵対心を持ってしまって、人の話を聞いたり、聞いてもらったりすることが難しくなるというのだ。これはまさに自分のことを言われているようで赤面してしまった。しかし、だからといってすぐに「人に聞いてもらう技術」が身につくわけではない。それでも、「よき消費者になる」ことは「いる」ために必要なことだ。
参考資料
唐突だが、週に2度の塾でのアルバイトが、自分にとっては精神的なバランスを保つのに重要な働きをしている。
そこには生徒も同僚も含めて、基本的に競争相手ではない人たちしかいないからだ。そして、自分の出した結果によってそこの居場所を勝ち取っていく世界ではなく、むしろ言ってしまえば「誰でも良い」ポジションというのが心地よい。もちろん、自分が力になれることがあればできる限りのことはしたいと思っているが、自分が他の誰よりも力になれるからそこにいられるのではない。まずはそこにいることが先に求められている感覚がある。その「誰でもよさ」がむしろ心地よいのだ。
『#2 タレント・新内眞衣×哲学研究者・永井玲衣 心地よく働くってなんだろう? 無理なく過ごしたいけど、適度なスパイスも欲しい!』(『ウェンズデイ・ホリデイ | WEDNESDAY HOLIDAY』)の永井玲衣さん言葉で言うと、「『私しかこれをできる人がいない』とかはすごい、ちょっとドキドキする」し、「『私がいなくなったらこれ、もうヤバい』みたいな。私がかけがえのない存在すぎるみたいなのがキツすぎ」るのだ。「「『めっちゃ楽しい! テンションぶち上がり!』っていうわけじゃないけど、でもここにはいられるな」みたいな状態が心地良さなのかな」というのと全く同じだ。
そして、塾では、隣の人が同じ世界を見ているか違う世界をているか、みたいなことを全く考えない状態、という一番健康的な状態でいられる。私にとって「ここにはいられるなぁ」と思える場所なのだ。
こうして考えてみると、「自分の実力で居場所を勝ち取っていく世界」と「絶対に私である必要はないけど私がいてもいい場所」のバランスが健康状態と大きく関係しているような気がしてきた。そして、良いバランスとは、後者に傾いていることだろう。今の私は圧倒的に前者に傾いており、だからこそ居場所を獲得できていないという逆説を招いているのではないか。そして、この「隣の人が同じ世界を見ているか違う世界をているか、みたいなことを全く考えない状態」が「いる」と接続するのではないだろうか。
上塗りされた世界
さて、Podcastで配信している『あの日の交差点』のゲストに来ていただいたボリウッドザコシショウさんとお話ししていた時に、哲学者の國分功一郎さんの話になった。その流れで、小児科医で当事者研究などもされている熊谷慎一郎さんとの共著 國分功一郎, 熊谷晋一郎『<責任>の生成 中動態と当事者研究』<新曜社, 2020> が一瞬、話題に上がった。私は当時この本を読んでいなかったのだがこの話をして以来ずっと読んでみたいと思っていた。それから半年以上経った2022年6月に、図書館の新着コーナーで見つけたのでその場で借りてきた。読み始めると、國分さんと熊谷さんの対談形式の講義の書き起こしなのでとても読みやすいことに驚く。軽やかなステップで話が進んでいくと思いきや、その軽いステップのままとんでもなく重要な話に足を踏み入れたりする。ついて行くのに必死だ。それでも、しがみついてでも読みたいほどに、まさにいま考えていた「みる」「する」「いる」問題にすごく接近しているように感じていた。
『責任の生成』の中で「記憶の蓋が開く」というキーワードが出てくる。何もすることがなくなる(退屈になる)と、思い出したくないトラウマ的な過去の記憶の蓋が開きやすくなってしまう。そして、その記憶の蓋を開かないために、あるいは閉じるために、覚醒剤や鎮静剤を使ってしまったり、過度に仕事に打ち込むことで覚醒度を0か100にしようとするのだと。しかし、そういった「退屈しのぎ」はむしろ自分を傷つけてしまうことがある。なるべく傷つかないように生きようとするのが人間の本性なのに、むしろそれに逆らうような行動をとってしまうことがあるのはなぜか。これは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』<新曜社, 2011> および『責任の生成』の重要なテーマである。
私はこの話を読んで、「自分がずっと興奮しようとしていること=「いる」に耐えられずに「する」ことを探してしまうこと」は、まさに退屈になってトラウマ的な記憶を思い出してしまうのが嫌だから「退屈しのぎ」として瞬間的な快楽(興奮)に手を伸ばしているのではないかと思うようになった。では、私にとってトラウマ的な記憶とは何か。トラウマ的な記憶という大それた名前をつけてしまって良いかわからないけれど、それは「世界への孤独感」なのだと思う。
楽しんでいる瞬間にも、本当に楽しいの?世界にはもっと楽しいことがあるのにそれしか知らないだけだよ。という声が頭の中から聞こえてくるし、本を読んだり考え事をしていて自分にとって大きな発見があっても、そんなの当たり前でしょ。だからなに?そんなことしてないでやることやったら?みたいな声が聞こえてくる。このように、自分のなかのポジティブな感情が、自分で作り出した世界の声によって「つまらないこと」に仕立て上げられてしまう。実態のない「もっと楽しいこと」や「やるべきこと」で世界は作り上げられる。実態はないので、「もっと楽しいこと」も「やるべきこと」も何なのかはわからない。このようにして、実態のない世界に上塗りされた現実の世界は決して掴むことのできない世界へと変容する。だから、窓から見る景色に現実感がないのだ。現実感のない世界の中に、ぽつんと一人だけ取り残されて、決して掴むことのできない「もっと楽しいこと」や「やるべきこと」に押しつぶされる。
そして、こう思うのだ。
「ああ、自分が会いたい人ややりたいことなんて、この世のどこにもないんだ。」
この「自分が会いたい人ややりたいことなんて、この世のどこにもないんだ。」という絶望的な「世界への孤独」が自分にとってのトラウマである。しかし、過去の記憶とは少し違う。いつどんな時でも、今この瞬間の真実を思い出してしまうような感覚だ。これを思い出さないために興奮しようとしているのだ。しかし、こうして書いてみると、「もっと楽しいこと」も「やるべきこと」も、言ってしまえば「世界への孤独」さえも架空のものなのではないかと思ってしまう。確かに、世界には「もっと楽しいこと」も、もっと「やるべきこと」もあるかもしれない。友達や会うべき人が多い人に比べたら、自分は孤独かもしれない。現状に完全に満足していないのも事実だ。もっと気楽に会える人が多ければ良いなと思うし、いまとは違う楽しみも知りたいと思っている。しかし、だからといって、それは「いま=絶望的な孤独」と断言して良い理由になるのだろうか。現状に満足していないと言っても人や状況によってグラデーションである。今すぐにでも現状を変えないと心身に関わる人もいるかもしれないし、現状に満足はしていないけど差し迫っているわけでもない人もいるだろう。そして、おそらく私は後者なのだ。いまが代え難いほどに幸福なわけではないし、やってみたいことも憧れることもたくさんあるけれど、いまこの現状だからできる楽しみを知っているし、時たますごく楽しい瞬間がある。これで良いのではないか?と思い始めた。
しかし、これは人生が100年あると思ってるやつの考え方だよなぁとも思う。
だから「いつか実現できるかもしれない可能性」だけに甘んじて生きていてはいけない。なるべく実現したいことにはアプローチしつつ、しかし、なんとなく悪くない「いま」を楽しむのだ。「いまを楽しむ」という言葉を聞くと、キラキラしていて「今が幸せで仕方がない!」みたいなアンミカさんのような人を思い出す(アンミカさんは嫌いではない。むしろ、おもしろくて好き)。しかし、現状を変えないまま「いまを楽しむ」と言っても、そうは思えないよなぁというのが本音である。その人にとっての「いまを楽しむ」はそのような状態かもしれないけれど、「まあ、不満ややりたいけどできていないことはいくつかあるけれど、やりたいことも少しできていて、時たますごく楽しい瞬間がある」みたいな「いまを楽しむ」があっても良いのではないか。自己嫌悪に陥らない程度にほんの少しやりたいことで生活を埋め尽くしてみるみたいなことで良いのではないか。誰のためでもないし、自分のためでもないし、代え難いほど幸福でもない、そういうことで良いのではないか。
自分の手で、いまの生活の中にあることから見つめ直してみる。家にいること、本を読むこと、歩くこと、走ること、食べること、料理をすること、掃除をすること、寝ること。
使い古されてもはや揶揄の言葉にさえなっているかもしれない言葉で言うと、これは「丁寧な暮らし」ということなのかもしれない。揶揄されても良い。私は、課題をしながらPodcast番組『コクヨ野外学習センター 』のシリーズ『新・雑貨論Ⅱ』を聴きながら、確かに、いま、目の前のことを楽しみたいと思ったのだ。より良く生きようとすることと、今を肯定することはきっと共存するのだ。
しかし、「『何がなんでもやりたいわけではないけどやってもいいかな』なことを楽しんでみること」は同時に、暇に耐えられないから消費する=「いる」に耐えられないから「する」ということになりかねない。ここは慎重にいかなければならない。「いる」に耐えられなくて「する」「みる」に逃げていることに無自覚な時は、消費的になっているのかもしれない。恒常性=コナトゥスを保つという人間の性質とは関係ない消費だ。しかし、「最高に楽しいわけではないけどちょっと楽しいからやる」といった行為への自覚は、快楽に逃げているわけではないと言えるのではないか。こういった、「最高に楽しいわけではないけどちょっと楽しいからやる」ことを引き受け楽しむ、その延長線上で世界を安易に消費しないかたちで世界と関係ことができるし、快楽を消費することも少なくなるはずだ。そして、「いる」も「する」も「みる」も、きっと開かれる。
802の春のキャンペーンソングだった、くるりの『Hello Radio』のセルフカバーを聴きながらノスタルジーに浸っていたら、「結局僕にあるのはノスタルジーだけであって現実は何も更新されていないのか!」とつらくなったりもしたけど、今日も空は高いし雲は綺麗だし子供の元気な声が響くし風は気持ち良いし、世界は美しい。現実もフィクションもノスタルジーの世界にひたりがちな昨今。いろいろなことが終わっていく夕暮れを確かに見つめながら、でも終わりは「今ではない」と、来るべき朝を見据えながら夕暮れをもう少し楽しむのだ。
そのシナリオは悲観的すぎるよ
頭の中で架空の声が心を蝕み、見えていた世界が架空の世界に上塗りされて絶望的な孤独に突き落とされた時は、誰にとっても価値のないものかもしれないけれど、確かにいま自分の目から見えている世界を、どれだけ捉えどころのない様相でも、こんなふうに文章やPodcastを通じて、切り取ってゆくのだ。
そうやって、私は世界に自立する。
(おわり)
※本稿は2022年6月29日に書いた文章を加筆編集したものです
参考資料
真昼の深夜(まひる)
Podcast番組『あの日の交差点』およびWeb版『あの日の交差点』を運営しています。
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